昼のテレビニュースで報じていたようだ。
たまたま、昼休み急ぎの見積もり作業中だったため聞くことが出来なかった。
見積もりの下調べが終わり、ほっと一息ついていると、月次決算書の作成のため本社に来ていた計理士が居室事務所のある川越第二工場に立ち寄って、業績内容の報告を受ける中その訃報を知った。
ショックだ~、具合が悪いとも聞いていないし、そんなニュースは一片もなかったので「え~」と驚きが走った。
何せ、デビュー当時からその存在を知っていたし、昭和30年代後半のころ、サラリーマン物などの映画に出演していた頃から記憶にあります。
※ サラリーマンもの、記憶を辿って「高倉健・万年太郎」で検索したら、やはりありました。
デビュー作は確か空手アクション映画で、明治大学で合気道をやっていたと思います。
※ ネットでデビュー作を検索記憶通り空手の映画でした。インターネットの情報量は凄い!
そして、江利チエミと結婚し、その後任侠映画でスターダムにのし上がり絶大な人気を誇っていました。
私が、大学時代、全盛期、東映男優では高倉健、女優では藤純子の任侠映画が大流行り、今でも網走番外地、唐獅子牡丹などはカラオケの持ち歌です。
共演した俳優がまたいい、池部良、鶴田浩二、若山富三郎。大木実、などなど懐かしい俳優ばかりです。
当時大映では任侠ものでいえば、市川雷蔵、若親分シリーズ、勝新太郎は悪名シリーズが流行っていました。
義理と人情の世界、個人的感情よりその掟が優先され、その葛藤がまた、心を揺さぶる演出となっていた時代でしたね。
まだまだ、伝統的価値観が大事にされているからこそ共鳴するファンが任侠ものに痺れたのでしょう。
後に三島由紀の自決を扱った新書本「昭和45年11月25日」にある記述が、その証左と思えるのです。
その本に拠れば、三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地に向かう時、車中で「昭和残侠伝」シリーズの主題歌「唐獅子牡丹」を歌っていたと言う。三島由紀夫は「昭和残侠伝 死んでもらいます」を絶賛、義理人情の熱き男の心意気に参ったのでしょう。
ネット記事は高倉健の存在感をこのように記述していました。
「・・・ 高倉さんが人気を不動にしたのは任(にん)侠映画。1960年代に大人気となった「網走番外地」「日本きょう客伝」シリーズなどは、学生運動に身を投じる若者らからも圧倒的な支持を得た。着流しのアウトローが逆境に耐えながらも復讐(ふくしゅう)を果たす物語に観客は熱狂した。多くを語らず、いざという時に体を張って、義理や人情を大事にする姿は、男っぽさの神髄と受け入れられた。
任(にん)侠映画の減少とともに、高倉さんは人間ドラマやアクション、大作へと出演映画のフィールドを広げた。ただ、過酷で暗い過去をひきずり、大きな重荷を背負って生きる役はその後もずっと続いた。青函トンネル開通に挑む男を演じた「海峡」(82年)、殺人事件を犯し逃亡しながらも母子家族の酪農を手伝う日本版「シェーン」といわれる「遥かなる山の呼び声」(80年)、引かれた女の元情夫が手配中の男と知り職務を遂行する刑事役の「駅 STATION」(81年)など。
武骨で口数は少ないが、人の情を大事にする素朴な男。「幸福の黄色いハンカチ」はその頂点の作品といっていいだろう。愚直なまでのきまじめさ、人生を常に遠回りしてしまい、必死に生きていても損な役回りになってしまう男の姿に、観客は共感と人生のつらさ、悲しみを感じた。・・・」
納得です。
映画スターと言われる最後の俳優でしたね。
これで本当の意味で銀幕スターの時代は終焉を迎えました。
映画世代の私には一つの区切りが付いた感じがします。
長い間お疲れ様でした。
ご冥福をお祈りします。
合掌。
追記
夕方テレビニュースで11月10日、都内の病院で悪性リンパ腫で死去と報じていました。
親分さん!死んでもらいますぜ!
この名セリフとともに、高倉健は
黄泉の国へと旅立ったのですね…。
義理と人情秤にかけりゃあ
義理が重たい男の世界!
いい役者でした…。
ヤクザ映画が私は、好きでしてね…。
ご冥福を、お祈りします。
合掌!
高倉健を知ったのは中学生の頃だったと思います。任侠ものはまだやっておらず、人気はいまだパッとしていなかった筈です。それが江利チエミとの結婚を境に任侠物でスターダムにのし上がり、それ以降御存じのように大スターとなったのです。
結婚報道でも、名の序列が江利チエミ・高倉健となっていた様に人気度から言えばチエミが上でした。
任侠物の格好良さが受けて人気スターに、一言でいえば「恰好いい」。
大学生になった頃、高倉健と並んで、藤純子にも夢中になりました。
最後の銀幕スターですね!