前のブログで紹介した「足利義久兄弟の自決と処刑」の物語を詳しく紹介します。
書かれていた本が「日本武士道史」、著者は森川哲郎、昭和49年12月1日の出版となっています。
この本を買った動機は、やはり、子供の頃から侍、武士など映画を見て描いたイメージと、戦後、武士道が封建的な考えと貶められていたこともあり、実際はどうなのかと関心があったのでしょう。
後に、「葉隠」「五輪の書」「武道初心集」「剣禅話」「剣と禅」など武道に関わる本を買っていることからもわかります。
それに学生時代、部活で合気道に打ち込んだこと、また友達に合気道の指導を頼まれたこともその背景にあります。
どちらにしろ、私らは「チャンバラ世代」剣術など武術に関心の有った子供でした。
漫画、ラジオ、「赤胴鈴之介」映画は梅若正二が演じていました。北辰一刀流が最初に覚えた流名かな!?
当然、切腹など武士は死をもって責任をとる行為は映画から学んでいます。
その覚悟を持ち得るのも驚きの対象でした。
それが、表題の物語、切腹こそしませんが幼い兄弟が処刑にあたり狼狽えることなく従容として受け入れる心構え、覚悟に感動したのです。
その物語は・・・
「室町時代の中期 、永享10年(1438)の頃、足利家は将軍職を巡って、血で血を洗う修羅の争いが続いていた。京都の将軍足利義教と鎌倉足利の本家足利利持氏である。鎌倉足利氏は、初代将軍足利尊氏の子基氏が鎌倉の主となって以来持氏に至るまで、四代、九十余年を経て、年毎に繁栄し一大勢力を築いていた。前将軍義持の死後、その後を継ぐ嗣ぐ者として最も世評の高かった持氏将軍職就任を、反持氏勢力は阻むため、石清水社の神託があったということにして、義持の弟で出家していた義円を担ぎ出して将軍に据えたのである。この陰謀から、京・鎌倉の両足利氏の間で血腥い合戦がくりひろげられる。しかし、鎌倉足利勢は、ついに敗れて・・・・」
ここから悲劇の始まり、まず持氏の嫡子義久が13歳ながら覚悟し切腹、その時の描写「・・・念仏を繰り返し十辺唱え、下腹をおし広げ、守り刀を抜いて、左わき腹に突き立てて、右に引き回し、うつ伏せに倒れて、息絶えた・・・」(永享記 鎌倉九代記)
13才にしてこの覚悟の切腹、凄いとしか言いようがない。
ここからが更なる悲劇・・・
「・・・が、義久には、まだ三人の兄弟がいた。そのうち春王と安王は、永安寺から乳母や近侍の者に抱かれて巧みに脱出し、下野まで落ちのび、日光山中に隠れた・・・」
がしかし、討手に追われ捕まってしまいます。
そしていよいよ処刑なのですが、従容と死を受け入れられるその覚悟、著者は「子にまで沁みこむ仏教観」と説明していました。
警固の武士、小次郎は二人の健気の様子に胸を打たれ、涙が止まらず、泣き沈むのでした。そんな心境が・・・
「・・・小次郎は、あまりのことに、真実が言えず、とっさに、「弟君は、京都から許しがあり、ご赦免になりなりました。」春王の顔色がぱっと輝いた。「安王のいたわしさに、身に代えて助けたいと思っていた。それがかなって、こんなうれしいことはない。だが、弟は、この世で兄の変わらぬ姿を今一度見ておいたかったと思うに違いない。起こしてくれ。最後の対面をしたいと思う。・・・」
しかし弟、それ嘘と見抜き、兄とともに死ぬ覚悟はゆるぎないものでした。
「・・・すまなかった安王、兄とあろう者が、このような偽りに気づかなかったとは恥ずかしい。安王、では、ともに十念を唱えよう」
「さ、小次郎、覚悟はいいぞ。はやくいたせ」
・・・中略・・・猶予することは、かえって二人のためにならないと、思い切った小次郎は、流れる涙を袖でおしぬぐうと、兄弟の背後に廻り、刀を抜き放ち、「えい!」と一声、白刃一閃した。再び一閃。二つの首は前に落ちた。
かくれて、様子をうかがっていた豊景、上人はじめ、数百人の武士たちは、いっせいに声をあげて、腕を眼に押し当てて泣いた。・・・」
戦国時代の習いとはいえ、覚悟のほどを示し従容と果てた幼子兄弟に、悲しさとある種の感動が入り混じって号泣したのでしょう。
そして処刑をした小次郎・・・
出家得道し、終生、二人の冥福を祈り続けたという。
著者は、「・・・武家の時代の哀話には、少年ながら深い信仰に支えられ、大人以上の覚悟をして、立派に死を迎え入れた話は少なくない。周囲の一族が深い信仰や覚悟を持っている時、疑いを持たない純真な少年の鏡にはそのままに反映して、その心境もまた深い驚くようなものになるようである。」
今、教育問題が取りざたされているが、大人も一度心を見つめなおす必要があるかもしれませんね。
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