東西ドイツ統一、ベルリンの壁崩壊

ベルリンの壁が崩壊して、2009年で20年目を迎えました。
1961年に建設が始まっています。
大戦後、資本主義国、共産主義国とイデオロギーの違いにより分断されたのです。
50年近く前の出来事、まだニュース映画がある頃で東ベルリンから西ベルリンへ逃げる人達を撮った映像を何度となく見た記憶があります。
まだ、政治向きのことをよくわからない年齢でしたが、悲しい出来事と映りました。
脱出するのに壁を越え、鉄条網をかいくぐって逃げるのですが、監視員に見つかれば銃殺されるのです、必死の覚悟で臨んだのでしょう。
ドイツ人が同じドイツ人を銃殺、まさに悲劇です。

20年近く年月が流れ、節目となる年と考えたのでしょう。
ケーブルテレビ番組で「自由へのトンネル」と題して、壁を越え、海を渡り、空を飛び、トンネルなどで逃げてきた人達の体験を映像化して放映していました。
再現映像と当事者の体験談を合わせての放映でした。

最近、地上波テレビがつまらないので、ケーブルテレビを見るようになりました。
チャンネルを回していると結構興味の持てる番組に出くわすのです。
この番組もその一例です。
多少なりとも、ベルリンの壁は何たるかを知っていましたので、興味がわいたのでしょう。
それと以前一度見たこともあり、詳しく知りたいと思う面があり観たのです。

トンネルを掘り脱出させようと行動を起こしたのが、当時学生であったイタリア人留学生、ドイツ人学生、それぞれ2名が中心となって映像は作られていました。
1962の年出来事です。
当時の東ドイツは自由が全くなく、自由へのあこがれが脱出の動機になっています。
政治体制が全体主義国家、国民は東ドイツ当局、人民警察の監視下に置かれ反体制的な動きがあると、つかまり牢獄へと送り込まれます。
西ベルリンの人達の生活ぶりの情報は入るのでしょう。
それを知れば、脱出したくなるのも当然です。

発端は兄弟、知人を脱出させるためにトンネルを掘ることに思いつくのです。
ドイツは地下水域が低く、1メートルも掘ると水が出てきてしまうため、地下水が出難い高い丘がある場所に目をつけ、地主と交渉し頼まれた地主も了解するのです。
東ベルリン下では犯罪になりますが、西ベルリン側には人助けと思えたのでしょう。
それにしても若さとは良いものです。
すぐに行動を起こすのですが、何せ資金不足墓場へ行ってシャベルや一輪車(土を運ぶためのもの)を盗むのですが、まあーご愛嬌ということで済んだようです。
盗まれた方は迷惑なことですが。
墓守の人達はなんで金にならないものを盗んだのかわからず、困惑していたと様子を語っていました。

 

若者4名、仲間を集めトンネルを掘り始めます。到達点は東ベルリンの7番地という場所に定めます。距離にして300メートルぐらい掘らなければなりません。
しかし、脱出させるという目標に向かって挑んでいきます。
このあたりも若さゆえの行動力が発揮されて、仲間も増えて作業が進んでいきます。
トンネル堀作業はスティーブ・マックイーン主演の「大脱走」という映画で見た作業とほとんど同じです。トロッコで土を運びだし、落盤しないよう添え木をたてたりして進んでいきます。

しかし、厄介な問題が発生します。水道管に亀裂が入ってトンネルへ流れ出すのですが、当局に連絡して、漏れを止めるのですが、なぜ学生がわかったのかと訝るのです。
それと次に起きた問題が資金不足、秘密裏に行っているのですが、学生がある方に相談を持ちかけると、結果的には当時アメリカ放送局のNBC関係者が知ることとなり資金を提供する代わりに、撮影を許可してくれるならと条件を出し、それを了承するのです。
しかし、他のメンバーには秘密とします。
そのような成り行きから、ベルリン市当局にも知れ、強いてはアメリカCIA、ケネディ大統領にも伝わりますが結果的には応援されるのです。
やはり自由への解放が決め手でしょう。
そんな経緯から、記録映画が残ることになりました。

資金が調達でき作業は順調に進み、目的地であった7番地に到達します。
行きついた場所は建物の地下室だったのです。
メンバーの一人が慎重に上の階へと進み場所の確認をします。
いよいよ実行段階に入りました。

脱出する人たちは居酒屋に集合します。連絡係はイタリヤ人留学生の妹、イタリア人女性が手引きをして脱出を手伝います。
当時、外国人は東西ドイツを自由に行き来出来るからです。
居酒屋に入るとき、確か手にした新聞が目印になっていたと思いますが、
手引きを終えて、東ベルリンから引き上げるときには膝が震えて止まらなかったと語っていました。
脱出する人たち、家族、妻、子供、妹であり、友人でもあります。
中には、予定の列車の乗れず、乳母車に赤ちゃんを乗せ、何時間もかけて徒歩で目的の場所へ行きます。
この思い、自由を勝ち取るための一心から起きているのです。
地下トンネルの案内係が、次々とトンネルに導き、脱出させるのですが、トンネルは這ってしか通れません。狭い場所へ入る恐怖感を抑えなければなりません。
しかし、自由への思いがそれを克服させます。
トンネルには、地下水が徐々に溢れ出してより一層困難な状況になります。
遅れていた赤ちゃんがいる家族も、何とか間に合い脱出に成功して西ベルリン側へたどり着きます。
NBC番組が撮影したフィルムでわかりますが、女性はストッキングの膝が破け、服は泥だらけ、一張羅を着込んできていたのですが、家族、友人の再会になりふり構わず抱き合って喜ぶ場面は感動的でした。
脱出の後、トンネルは地下水で水没し使用できなくなりました。
水が入らなければどれだけの人達が脱出できたでしょう。

東ドイツは、壁を高くし、監視員を増やし脱出をできないようにと強化していくのですが、止めることはできませんでした。
結果的には、そのための費用が財政を圧迫させ崩壊へと繋がっていくのです。
どんな脱出が有ったかというと、
様々な方法が取られ、はじめのうちは壁を超えて鉄条網を潜り抜ける、装甲車を使って壁を突破、ウインドサーフィンで海を渡る人、軽飛行機を作り空から東ベルリンの公園に着陸し弟を乗せまんまと脱出に成功する人、熱気球を使って脱出する人、本当に様々な方法が考えられていました。

その根底にあるのは、自由への憧れからです。
サーフィンで海を渡って脱出した青年が言った言葉が印象的でした。
ビートルズが見たかったと。

人民警察の監視下で、自由に旅も出来ない生活を体験した者にしかわからない、
自由を失って、その有難さがわかるとは脱出した人の言葉でした。
普段自由に旅ができることに感謝です。
ベルリン壁崩壊のきっかけは、1989年11月9日に東ドイツ政府が「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で誤発表した事と言われています。

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