124代 昭和天皇が崩御されたのが昭和64年1月7日、もう20年が経ちました。『オギャー』と生まれて昭和の時代を40数年生きてきた私にとって、節目を感じた1月7日でした。
一昨年までは天皇陛下のお誕生日を「みどりの日」と呼んでいましたが、「昭和の日」と変わりました。昭和天皇の人となりを示す、どちらもいいネーミングと思います。前者は植物学者だった事を暗示し、昭和と言う元号は天皇の歴史そのものを示しています。
私は昭和天皇に思い出深い経験があります。
私が子供の頃、住んでいた町が飯田町という所でした。JR中央線飯田橋駅東口の側でした。当時、親父は文房具屋を営んでいて、目白通りに面した場所で店を構えていました。通りに向かって右側が早稲田方面、左側が九段下方面です。
いつの頃か記憶は定かではありませんが、多分昭和27、8年頃だと思います。昭和天皇と何度かお会いした事がありました。
どのような状況かと言えば、昭和天皇がロールスロイス(おそらく?)に乗って皇居に向かう時でした。
当時、何時頃、天皇陛下が目白通りを通りますという知らせが町内にあったのだと思います。その時刻に通るのを待っていると、オートバイに先導され天皇陛下が乗って居られる車が九段下方面に向かって目白通りを走り抜けるのです。
戦前のように最敬礼をしなければならない慣例は無く、歩道には人が集っていませんでした。その時、歩道で天皇陛下を見ようと立っている私に視線を向けて手を上げてくれたのです。その時、とても強い印象で私の心に残りました。
当時、私は身長は1メートル前後だと思います。天皇を見上げるように見た記憶があります。距離にして3、4メートルです。
その経験が後々、昭和天皇に対し尊敬、敬意とか表現するより、好きになっていく切っ掛けとなりました。
天皇陛下の報道や、ニュースを見聞きし、人となりを想像する時、その経験(天皇陛下が私のような子供にも丁寧に挨拶をしてくれた行為)が基準となりました。
大正時代、良子(ながこ)様と婚約したニュース映像を見たことがあります。皇后様に色盲の疑いがあるのでふさわしくないなどとの怪文書が出回った事件のことも知りました。天皇はその時もそんな噂に振り回されず思いを変えませんでした。
このような姿勢(誠実で、真面目で、実直)は終生変わらなかったと思います。
天皇陛下が皇居前で閲兵した時、雨が降っていたので側近が傘をとすすめられた時も兵士が濡れているのにと言って傘をささず、レインコートのままで直立不動に立って居られたそうです。雨の中、閲兵が終わった時陛下の立っていた場所には靴跡がくっきりと残っていました。
微動だにせず長時間、同じ姿勢を維持していたなんてスゴイと感じました。
私の通った小学校が皇居の側にあり、その影響もあって天皇陛下に関心を持ち続けたのだと思います。
こんな経験もありました。大学一年の時、教養課程で歴史の授業があり先生から『今の天皇は何代目か分かる人とは』と質問がありました。
記憶していたので、すぐに挙手して124代目と答えました。100人以上の学生がいる中で私一人だけが知っていたので先生がこう言ったのです。『君は進む学部を間違えた』。私が入学したのが工学部、先生から見れば文科系に向いていると思えたのでしょう。
そのお陰かどうかわかりませんが数少ない「優」を歴史の授業で取れました。
2.26事件も何度もニュース映像で見ています。昭和11年に陸軍の青年将校がクーデターを起こし、教育総監私邸、麹町の鈴木貫太郎侍従長官邸、神奈川県湯河原の牧野伸顕前内大臣を次々に襲撃、警視庁、陸軍省、陸軍大臣官邸、参謀本部を占拠します。
その混乱の最中、陸軍の将軍達がモタモタして鎮圧しないので、天皇陛下は『朕自ら近衛師団を率いて現地に臨まん』と言い、鎮圧させたそうです。
だいぶ前に、亡くなられた落語家で柳家小さん師匠がこの反乱軍に加わった経験談をテレビ番組で話していました。
思想的な意図は無く、巻き込まれてしまったのでしょう。
その時の経緯は『昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記 文芸春秋出版』によればこうです。
「当時、叛軍に対して討伐命令を出したが、それに付いては町田忠治を思い出す、町田は大蔵大臣であったが金融方面の悪影響を非常に心配して断然たる處置を採らねばパニックが起こると忠告してくれたので、強硬に討伐命令を出すことが出来た。・・・中略・・・この時と終戦の時の二回だけは積極的に自分の考えを実行させた」
この時の決断はリーダーとして資質の高さを評価する向きもありますが、大所高所に立って物事を見るように育てられていたのだと思います。入江侍従長の話だったと記憶していますが、『台風が発生し東京方面に向かっていると予報があり心配していると、台風が九州方面に方向を変えたのでご安心くださいと申し上げたら、天皇は九州の人達のことを心配され、陛下の広いお心を知り、自分は恥ずかしさを覚えた』と言うような事とだったと思います。
今風に言えば、失礼にあたるかも知れませんが、『ものが違うぅぅー』です。
幼少より、天皇となるべく教育されていた事、天皇陛下ご自身の性質がその根底にあるのでしょう。
『歴代天皇事典 出版PHP文庫』に、幼少時代の教育方針が書かれていました。
生後2ヶ月で、枢密院顧問川村純義(すみよし)伯爵に預けられ「心身の健康第一、天性をまげない、ものに恐れず人を尊ぶ、わがままな癖をつけない」という幼児教育がなされた。
学習院初等科に入学した時、院長だった乃木希典にも影響を受けたようです。
15、6年前頃、読んだ雑誌「プレジデント」で天皇の特集を載せていました。この時、雑誌の表紙に天皇陛下の肖像画が使われていたので切り取って額に収め事務所に掲げてあります。
その記事の中に乃木将軍とのエピソードとして、乃木将軍が殉死を決意して、お別れの挨拶を言いに来た時の事です。
裕仁親王ほか弟君、雍仁(やすひと)親王、宣仁(のぶひと)親王の前でお別れの言葉を述べていた時です、乃木将軍は殉死の覚悟をして来ているので鬼気に迫る感じが出たのでしょう。弟君は怖くなりその場から立ち去ったのですが、天皇陛下はしっかりとその話を受け止めていたそうです。お別れの最後に天皇陛下に※「中朝事実」の本を渡したのです。
※ 山鹿 素行の書(やまが そこう、元和8年8月16日(1622年9月21日) – 貞享2年9月26日(1685年10月23日))は江戸時代前期の儒学者・兵学者である。父は浪人の山鹿貞以。古学派の祖。本名高祐。字は子敬、通称甚五右衛門。
このブログを書くにあたり、以前からその本に関心があったので、古本屋から取り寄せました、
本の表紙に「中朝事實」高興 山鹿素行先生遺著 大勲位元帥 海軍大将伯爵 東郷平八郎閣下題字 陸軍大将伯爵 乃木希典閣下訓点
学堂 島津 巌先生訳著とありました。
目次を見てみると、皇統 上下卷とあり各7章、6章で構成されていました。購入した古本は大正13年6月23日初版とありました。
当然ですが、記述は旧漢字、文章構成は上段に漢文、下段に訳文となっています。神々の名が出ており神道における皇統の意義を書いている本と思われます。
例えば一章は「天先成」天先ず成りて地後に定まる。然して後神明(かみ)其中に生る。其神を国常立尊と申す・・・・・とありました。
また、はしがきに興味ある記述がありました。
大将が本書を如何に崇敬して而して如何に国寳とまでせしかは左記の記事によりて明らかなり。と説明があり記事にこう書いてありました。「去る十日(大正元年9月10日の事也)東宮裕仁親王殿下陸海軍少尉に御任官あらせられたる時なりき。・・・・・・・・中略・・・
とて懐中より『中朝事實』と云う一書を出して恭しく殿下に献上し極めて低き音調にて・・・・・中略・・・・・・其他にも皇太子として更に必要な御學問もあり』との旨言上し、語々沈痛を極めて次第に情の迫れるが如く(下略)。(大正元年9月16日萬朝報記載)
「プレジデント」に載っていたことはこの記事のことと思われる。
説明が長くなりましたが、普段ほとんど目にしない本でしたので記述しました。
誠実さを感じる話として次のようなエピソードがあります。
内親王様が4人続いてお生まれになり、跡継ぎが生まれない事を重臣が心配して側室をもたれるよう進言をした時、不快感を示しながら『良宮(ながみや)でよい』答えられたそうです。5番目にお生まれになったのが今上天皇です。
また、晩年、皇后さまと新婚旅行で行かれた地、確か那須方面だった思いますが、旅行の際に後から付いてくる皇后様に何度も振り向き、気を使っておられました。なんとも言えないほほえましさを感じたものです。皇后様を愛しているのだと。
私心無く一心に国、国民を思い天皇と言う職責を果たした人とつくづく感じています。
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