4月26日付け産経抄にバルチック艦隊ロジェストヴェンスキー中将の話が掲載されていた。
ロシアの黒海艦隊旗艦モスクワの沈没と関連付け、数百発の砲弾を受けて沈没したバルチック艦隊の旗艦スワロフと重ねていた。
2022年4月14日、ロシア黒海艦隊旗艦のミサイル巡洋艦「モスクワ」が沈没しました。ロシア側はそれに関して「搭載した弾薬が爆発し、曳航中に悪天候となり沈没した」と発表したものの、肝心の「搭載した弾薬が爆発」した原因については明らかにしていません。ネット記事より。
ウクライナの発表ではミサイルネプチューンが2発命中したとか。
日本海海戦(にほんかいかいせん)は、日露戦争中の1905年(明治38年)5月27日から5月28日にかけて、大日本帝国海軍の連合艦隊とロシア海軍の第2・第3太平洋艦隊との間で日本海で行われた海戦である。ウキペディアより。
第二、第三艦隊を合わせてバルチック艦隊と呼称している。
第二艦隊司令長官がロジェストヴェンスキー中将、第三艦隊司令長官がネガトフ少将。
艦隊数は、
東郷司令長官ひきいる連合艦隊(戦艦4隻・巡洋艦8隻以下96隻)は、バルト海のロシア基地から派遣されたバルチック艦隊(戦艦8隻、巡洋艦6隻以下38隻)を、対馬沖で待ちかまえ、1905年5月27日・28日の二日間にわたって激しい戦いを行い、バルチック艦隊の19隻を撃沈、7隻を捕獲または抑留し、同艦隊を壊滅させました。
ネット記事より。
この写真は上の書籍から引用。
発刊昭和48年3月24日の本です。
下の写真左側の配置図が有名な丁字回頭作戦。
〈5月27日 早朝 日本海海戦当日〉秋山真之より東京へ電報「敵艦見ユトノ警報二接シ 連合艦隊は直チニ出動 コレヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレドモ波高シ」「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」というこの台詞、これは、機雷を敷設する水雷艇が波高により出撃出来ないという打電であった。
これにより連合艦隊は、「連結機雷」を諦めざるを得なくなってしまう。 連合艦隊は一切の作戦も持たずに大国ロシアと戦うこととなった。そんな時、さらに問題が発生。
この時の東郷の作戦はバルチック艦隊に向けて前進し、艦隊の西側で反転。同航戦に持ち込む戦法であったが、敵艦隊の位置の測距にミスがあり連合艦隊はバルチック艦隊の正面に出てしまった。この時、危険を避けて敵の西側へ転針すれば逃げられるかも知れなかった。
しかし、東郷の下した決断は取舵(東へ転針)であった。ここで取舵をすれば連合艦隊が回頭を終えるまで、敵の集中砲火を浴びることになる。この時東郷は「たとえ三笠が沈められようとも、バルチック艦隊は絶対に逃がさない」という決断だったと伝えられている。
数々の問題に見舞われながら、艦隊を勝利に導いたのは、この捨て身の「東郷ターン」だったのである。ウキペディアより。
中学生の時新東宝の「明治大帝と日露段戦争」の映画でこの作戦を知りました。
この新聞の記事は2009年(平成21年5月31日付け)のものです。
「バルチック艦隊の壊滅」の本を読んでいた(2段書きで557ページあるので読み切ってはいない)ので、その記事だけをその本に挟んで保管しておいたのです。
この記事で触れていますが、「・・・『ロジェストウェンスキーは敗軍の将だからよく言われない。だが、寄せ集めの部隊を率い半年もの長期航海を乗り切ったことは大変な功績です』と・・・」
この本を読めばそのリーダーシップはかなりの力量と想像が付きます。
日本艦隊は待ち伏せですが、バルチック艦隊は半年の長期航海を経て対馬に来た分だけ不利な海戦と思えます。記事で云うように負けはしたが大した軍人だったと思います。
敵ながら天晴れという事ですね!
2月24日ロシアが侵略して2ヶ月間以上が経ち戦争は膠着状態ですが、象徴的な出来事旗艦モスクワが沈没、1905年日本海海戦同様にロシアが敗北となるのかな?
もしこれがロシアの勝利となれば覇権主義(帝国主義)が復活し国際社会は混迷が避けられないのでは?
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