「鎮守の神様」という言葉、文部省唱歌「村祭り」で知ったのでしょう!
子供の頃、千代田区飯田町に住んでいましたが、近辺にあった神社では東京大神宮、そして靖国神社があり木々に囲まれていました。
東京大神宮は私が通園(昭和25、6年頃)していた同仁幼稚園の脇にあり、裏から入ると木々が沢山あり森としての印象があります。
現在ではその場所に会館が建ってその面影はないですが!
神社には森があってこそ成り立つものなのでしょう。
それを鎮守の森と呼びますね。
私が勤務している川越第二工場の傍にも、小さいながらも武蔵野稲荷神社があり木々に囲まれています。
※ 宇迦之御魂大神:読み うかのみたまのおおかみ(記紀神話の男神)
『古事記』では、須佐之男命(素戔嗚尊)(すさのおのみこと)と神大市比売命(かみおおいちひめのみこと)との間の御子であるとしている。『日本書紀』では、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)二神の御子であるとしている。神名の由来だが、宇迦は食(うけ)の意味である。「稲に宿る神秘的な精霊」という意で、五穀・食物を司る神とされる。【日本の神様事典】より
今もなお沢山の神社がある日本、関心を持って見ると 気付かされます。
「村祭(むらまつり)」は、1912年(明治45年)刊行の小学校向け音楽教科書「尋常小学唱歌」に掲載された歌、だそうです。
こんな歌が作られるのも、古来より日本人の生活に根差した心の拠り所としての場所と伺えます。
村祭りの歌詞から古来より、稲作で経済が成り立っていた事がわかります。
「五穀豊穣」「子孫繁栄」が当時の日本人の基本的な願いだったのでしょう。
「農本主義思想」なるものが生まれてきたのも頷けられます。
村祭りの歌詞がそれを示しています。
1 村の鎮守の神様の
今日はめでたい御祭日
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
朝から聞こえる笛太鼓
2 年も豊年満作で
村は総出の大祭
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
夜までにぎわう宮の森
3 稔(みのり)の秋に 神様の
めぐみたたえる 村祭
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
聞いても心が 勇み立つ
3番目の歌詞、戦前までは次のように歌われていたとの事。
治まる御代に神様の
めぐみたたえる村祭り
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
ドンドンヒャララ ドンヒャララ
聞いても心が 勇み立つ
敗戦により、占領政策で天皇が現人神から人間天皇宣言で象徴ということになったことで変えられたようです。
私らの両親ぐらいまでは、そのように歌っていたのでしょう。それについては両親からは聞かされていませんでしたが。
日本敗戦によりそれまでの文化、伝統が占領政策によって断絶したとあらためてて感じます。
神社、森(杜)がなぜ対になっているのでしょう?
「文化としての神道」薗田 稔著にその理由が書かれていた。
第三章「鎮守の森の復権のカミとマツリの論理」の項に、
「・・・鎮守の森もまた、日本のカミとマツリの論理にみちびかれてこその聖域であった。日本のマツリとは、総じて神霊を招き饗宴をももって歓待し慰撫しての神威を高め、それに浴する儀礼をいう。その原義は、不可視のカミ(神霊)が現れるのをマツ(待つ)こと、そしてミアレ(出現)したカミにタテマツル(奉献)、マツラフ(服従し奉仕すること)を意味している。
前述のように、万象に宿る不可視の霊性(タマ・モノのうちとくにその霊威を畏怖してカミ(神霊)と特定することが、すなわちマツリすることであり、もしカミに気付かずにマツリ洩らすことがあれば、カミは祟ることをもって自らの存在を人に知らしめることもある。
カミは日常に籠って不可視であるからこそ、マツリに際して待ち焦がれる祭り人の前にミアレ(神顕現)して歓待を受け、神徳をほどこしてまた籠もりの座に帰る。カミは日常のコモル存在であるからこそ、非日常のマツリにミアレする機会を要求する。その意味で、カミとマツリとは不即不離の関係にある。そして主としてカミが籠もり鎮まる聖地こそが、古来「鎮守の森」であったのである。
日本では、古典的にもモリを「杜」と書き、時には「神社」をモリと訓む場合もある。漢字の「杜」には本来モリという発音はなく、語意にも「森」を言わず、いわんや神社を指す文字でもない。
だが、日本ではこれを仮り字したときにカミのモリに使ったのは確かである。しかも「神社」をカムツヤシロとも訓みながら、おなじ意味に「杜」を当てたことに深い示唆がある。樹木と大地が一体となった豊かな森こそが、古代日本人に森厳な神の霊地を思わしめたのである・・・」
日本人の誰もが、大自然にたいして畏敬の念を抱くようになったのは、古来より農耕民族として稲作を主として生活の糧として自然と向き合い、共生しながらの歴史があり、大自然の中で生かされているとの自覚が生まれ、天変地異、地震、台風、津波など先人たちが恐れ戦き災害から逃れるためにと祭政一致の行事が生まれ、安寧を願う心がモリに不可視な霊性を感じる心性を育んだような気がします。
ムラと呼ばれる共同体が形成され、そのコミュニティーの中心が鎮守の森となったのでしょう。
「豊年満作」と歌っている「村祭り」の日本人の心の原点を見る思いです。
合気道二代目道主 植芝吉祥丸氏は「父は合気道の心は皇祖皇宗の御遺訓である、と良く言って居りました。合気道は日本の自然の中で培われた純粋に日本的なものだ。日本民族は麗しい山河を愛で、御皇室をその中心として尊宗して来た。従って合気道は御皇室と共に在り、御皇室中心で無ければ成らない、と」『合気道探究』より引用。
開祖が仰ったこの言葉の中に、「合気道は日本の自然の中で培われた純粋に日本的なものだ。」とありますが、合気道が日本精神を体現するもの言っていると同時に、天皇を「カミ」の存在を見ていた日本人の特性をも示しているようにも思えるのです。
社長、ご無沙汰しております。
鎮守神、少し違うかもしれませんが私の地元では「産土様(うぶすなさま、少し訛って、おぶすなさま)」と呼んでいました。夏にはお祭りもありました(子供たちで神輿を担いで地区の家庭を回ったりしていました)。私が子供のころは、ご神木によじ登ったりして・・・罰当たりですね~。
最近は、神社がパワースポット的な扱いでお願い事をしたり何かを得ようとするような世の風潮がありますが、参拝の際には是非日頃の自分の生活の無事への感謝の気持ちを、真っ先に神様へ伝えたいですね。
米の祝福さん、コメント有難う御座います。
産土神(うぶすなのかみ)様は、日本の神様事典によると、
氏神の範疇になり、「時代が下るにつれて、氏神は産土神と混同され、居住地の鎮守の神を氏神と呼ぶようになったものをいう。」とありました。
その地域の神様ですね。
身近にあるものなので、あまり由緒などに関心が行かず見過ごしてしまいがちですが、古来より祀られて地域社会の心の拠り所として大事に守られてきたのでしょう。
私自身も、若いころ深い関心があったわけではないですが、「日本古代史と神道の関係」「神道と日本文化」などを読んで、大和民族と不離不即の存在と理解しました。
家々で語り継ぐべきものと思います。
外国人労働者を受け入れるようになった今こそ、受け入れる側が文化をしっかりと学ぶべきなのでしょう!