最近になって、「音」に関心が向くようになってきたのですが、多分に奄美民謡の稽古が影響しているようです。それに言霊学というコトバの学問の理解が深まった事もあるかな。声・歌声は声帯の振動により、聞く人に伝わります。歌の場合それが上手い、下手の評価に分かれ、言葉だと印象に影響します。
最近、カラオケ大会のテレビ番組があり、機械的な判定により優劣を決めて競い合い、音程、ビブラート、シャクリなど音楽的な要素を的確に歌えるかで採点しています。
プロ歌手が自身の持ち歌で歌っても採点で負けるケースが出てきますね。しかし、歌を聴く側の感性に訴えるものに違いはあるからプロ歌手としての評価は変わらないです。
それはなんなのか?。
たとえば、エルビス・プレスリー、ビートルズが出てきた頃、当時、従来の音楽に慣れていた人々はロックは騒音に聴こえたが、若者世代には受けいられて大人気に。日本でも従来から歌われていた歌謡曲も戦前、戦後と時代の移り変わる中、正統的な歌唱力のある、藤山一郎、岡本敦郎、東海林太郎などの歌い方から、従来でしたら歌手としてしゃがれ声で通用しないと思われていた森進一が歌手として成功します。
音楽、歌声などは大衆がどう感じたかで評価が決まっています。しかし、ジャンルの違いがありますが歌い方の素は息でふるわせる「声帯の振動」だけの事。
それを決めるのが流行りと言うモノなのでしょうか?。
人間の習性に「ない物ねだり」の癖があり、新しいものに飛びつく傾向にあります。それが影響しているのでは?
流行歌と呼ばれるのがその証拠ではないでしょうか?
私等の年代だと、今テレビ番組で流行っている集団で披露する歌い方、例えば「AKB48」、歌そのものより集団でのダンスとともに歌うパフォーマンスは学芸会的で素人としか映りません。
でも人気はあります。
昔、アメリカではフレッド・アステア・ジンジャー・ロジャースなどダンス、歌なのでのエンターテーメントと比べれば、玄人、素人の違いは一目瞭然。
この様に歌の評価は、人の観かた、感じ方、流行りなどで変化した来たのでしょうが、「音・ひびき」でとらえると本質は同じ「空気の振動」、それが様々な感じ方で人々に響いているのです。
その観点から、「コトバ」を観てみると、やはり時代と共に使われる言葉は変化していますね。
けれど、伝える点では「空気の振動」、コトバの場合、抑揚、イントネーションで伝わり方が変わってきます。それは歌でも同じですね。
たとえば、返事で「はい」、語尾を上げて「はい↑」と言えば聞き返すニュアンスになり「はい↓」と語尾を下げれば不承なニュアンス、そして「はい→」と発音すれば了解となる。
それだけでも印象が変わるほど、「音」にはさまざまな要素があるのではないでしょうか。
奄美民謡を習って10年ほどになります。
歌い方、音程もさることながら、抑揚などのつけ方を厳しく指導されます。その意味が段々と理解できるようになってくると、奄美民謡として相手への伝わり方に違いが出て来るのを認識できるようになりました。
以前にもまして「母音」で歌われる抑揚には注意を払うようになりました。
それも響き方で伝わり方が違ってくる証拠です。
最近、奄美民謡の稽古後、飲み会に参加した時、会長から出てきた話が奄美島唄の唄者、朝崎郁恵 が歌っている。新日本風土記のテーマ曲「あはがり」。
評判がいいと言うのです。
私も何度か聞いていますが、
映像とマッチしてその調べ、歌声が心に響いてきます。音質がいいとか、歌唱法がいいとかその枠を超えた存在のような気がします。
ひびきには思いがのるからこそ「魂に響く」のでしょう。
コトバにおける日本独特の「言霊学」息と声(音)に心性、霊性を感じ取る何かがあったからこそ生まれてきた学問のような気がします。
そんな認識が芽生えてきた時期に書店で見つけ、買い求めた本がこれです。
音にはやはり何かがあるのです。
これからボチボチと読んでみようと思います。
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