このブログ、8年前に綴ったものです。
改めて、掲載します。
実際、体験された方を川越商工会議所が招き、講演した内容を載せました。
テレビ報道で、20年もたつと体験者も少なくなり、地震災害が風化していくことを憂いていました。
時が経つことで、記憶も薄れるのは仕方ないが、8年前、語り部として市の職員が語って呉れた体験談をもう一度読み直すのも意義があると思います。
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去る9月19日、当地川越商工会議所建設部会主催の講演会『大丈夫ですか?あなたの地震対策』に参加してきました。
講演の終わりに主催者の方が是非他の人にも伝えて下さいと締めくくったことがこのブログを書く動機となりました。
日頃からマスコミメディア等、地震の番組が多く放送されていたこと、家でも災害時の準備をしていることも手伝って、関心を引く結果となりました。
私が大きな地震として知っていたのは、やはり関東大震災です。亡くなった母が大正12年生まれなので、はっきりと記憶していました。
毎年9月1日は特集番組が組まれ、何度も震災の映像を見る機会がありました。
地震については周期説が取りざたされていていつかは来るだろうがとの認識でしたが、あれから84年も経っていること、最近※これから30年の間に起こる確率は70%と言う発表を聞いてますます関心が高まっていました。
※この講演会の4年後、2011.3.11に東日本大震災が起きてきます。
講演会の内容は、
1 『川越の地盤は地震に・・・』
講師 工学博士 一川 宏也氏
2 『阪神・淡路大震災~その体験を語る~』
講師 谷川 三郎氏 阪神・淡路大震災記念協会 人と防災未来センター語り部
地盤については、地質を理解させる意味で、エジプト スフィンクスの補修工
事について話がありました。スフィンクスの首の部分が細くなり補修する必要
がでて地下水を止める方法で対処した。劣化の原因は乾湿の繰り返し。
三内丸山遺跡のクリの木が柱を立てる直径1mの穴にかかる重量から高さを解
析し16mと推測され、立てられて櫓は漁や外敵の見張りに使用していたので
は?と地質についての説明から川越の地盤について話が及びました。
簡潔に言えば、新河岸川を東西に分け東側が弱く、西側が確りしているそうす。
講師の方は詳しくはこの場では支障もあるので、詳しく知りたい方は個人で
機関などを利用し調べて下さいと結びました。
次に震災の講演に移りました。
内容を箇条書きにすると次のとおりです。
1.芦屋市震災記録ビデオ放映
2.自宅の被災と徒歩出勤上の惨状
3.災害本部の立ち上がり
4.災害対策本部の運営
5.国、県との連携
6.初動対応と実務内容
役割分担
救命救助
ご遺体の管理と火葬
水、食料の確保
救援物資の対応
避難所の管理
情報
ボランティア受け入れと対応
7.自主防災組織の役割と重要性
8.質疑応答
ビデオ放映で一番感じたことは2階建て住居の1階はほとんどつぶれていたことです。古い家屋が多く屋根が重くてつぶれたようです。
明石17キロ地下で起きたこの地震、当時は芦屋には地震が起こらないとの認識が定着していたといっていました。活断層が芦屋を通り抜けていたのも地震があって分かったそうです。
語り部の方は、自宅で被災され地震の振動で恐怖に駆られ、実際の振動時間が13秒なのに30秒、1分に感じたそうです。立って居られず柱にしがみついていたそうです。その後出勤しなければと近くに住んでいる若い職員が運転する車に同乗し向かったのですが、車で向かったことをすぐ後悔したそうです。
結果的には渋滞で、途中で車をおり徒歩で芦屋市役所へ向かう中、被災の惨状、道端にはいくつもの亡骸を見ながらの徒歩となったそうです。被災時車、バイクでの移動は絶対してはいけない自転車か徒歩と強調していました。
当時、芦屋市は珍しく女性の市長でした。被災時旦那さんが腰に負傷し市役所へはすぐに駆けつけることが出来ませんでした。しかし、助役の方が被災直後近いせいもあり市役所へ駆けつけることが出来ていました。助役は市長に成り代わり直ちに職員に指示を出していたそうです。
1.市役所建設部職員には、救命救助の指示 約100名
2.医師会へ負傷者への対応依頼
3.お寺さんには遺体安置の要請(しかし、地震でお寺さんは壊滅、不能)
4.葬儀屋に棺桶、ドライアイスの手配
語り部は、この落ち着いた助役の態度に感心したそうです。
この最中、職員が市役所に参集できたのは約40%程度ですと説明がありました。
救命救助は初動がいかに大切か強調されていました。
データとして、
被災1日目82名救助し60名助かる。
2日目22名救助し5名助かる。
3日目19名救助し生存者なし。
となっており如何に迅速な救命救助が大切か理解できました。
芦屋市の住民は2キロ×5キロ四方の地域に87,000人が住んでいて、450人の方がなくなられています。
地域で言うと浜辺に近いほうが被害が大きかったとのこと。
被災後各自治体に連絡を取り、支援の要請を行い、2万人分の水、食料の援助を頼んだそうです。しかし、救援物資が届き、その保管場所を市役所の地下にしたため、運搬に不眠不休で3日も費やし、大変な思いをしたそうです。
その反省から、広い場所に変えて物資分配作業が順調になったとの事。
救援が暫時、順調に行くようになり、また地域の会社なども避難場所を提供してくれて大いに助かったそうです。
ただし、ある大手都市銀行が所有している野球場を避難場所にとお願いしたとき、断られたそうです。銀行すべてとは言いませんが私には「さもありなん」と印象を持ちました。
遺体の火葬には各自治体の火葬場を利用し対応したそうです。奈良、大阪、滋賀県遠くは九州まで遺体を自衛隊が飛行機で運んだとのこと。
実際に経験者の話なので、参加者約200名全員が真剣に聞いていました。
語り部が経験から次の事を強調し、注意を促していました。
役立つもの
1.懐中電灯、携帯ラジオ
2.バール ロープ のこぎり ジャッキ
3.水の確保(風呂水を残して置く)トイレ用として
4.食料確保 1日分でも何とかなる
心得として
地震に際しては、まずは
『身の安全 机の下有効』
『家族の安否確認方法を決めておくこと』
『災害ダイヤル171の利用』
といわれました。
次のようなデータもありました。
救命救助された方、行政側で2割で、後の8割が近隣住民の救命救助によって救われていました。
地域社会のコミュニティー、リーダーシップが如何に大切か示すものですとも語っていました。
最後に自分が5年前女房を突然亡くした経験をして、改めて被災され家族を失った人たちの気持ちがしみじみ理解できたと涙ぐみながら語り講演を締めくくりました。
阪神淡路大震災でなくなられた方、6,434名のご冥福を祈り合掌。
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