先月、連休を利用し親戚のいる石巻市、岩手郡岩手町へ車で行ってきました。
毎年、岩手にはブルーベリーを採りに行くので、そのついでにと1日目は石巻市福地に寄ったのです。埼玉から東北道、三陸道を使い6時間のドライブでした。そこは北上川の側に家があり山に囲まれ、川に面して当然ながら豊かな自然に恵まれた場所でした。北上川は川幅もあり雄大な風景でした。
その家は、亡くなった父の後添いの実家で、一度は私を連れて行きたいと言っていたのを受けて、はじめての訪問となりました。母の兄、姪、とその子供三人暮らしで、住まいは敷地160坪、部屋数は1階が5部屋、2階が3部屋とあり大きさと使われている木材の質の良さに感嘆しました。
建てて10年ぐらい経っていましたが、造りは良く大黒柱の太さにも驚きました。私が住んでいる地域の家のつくりと比べると質の違いを感じました。
床の間には父が書いた掛け軸が掛けてあり、それなりに書体が素晴らしく、父が習字好きだった事を改めて思い出した次第です。
訪問した際、仏壇に向かいご先祖様に挨拶をした後、5人で懇談し話の弾みで、お墓も近いので墓参りしようと言うことになりお寺に向かいました。
お寺は山の麓にあり森に囲まれた場所でした。お寺が建てられてから400年位経っているそうです。
ご先祖さまのお墓を案内され墓参りを済ませたのですが、母がご先祖の石碑もあるというので見に行くことになりました。
山腹にある墓所なので、やや緩やかな登り道を行き、それは本堂の側に立っていました。石碑は四つありました。その一つがそれでした。石碑に彫られた文字を拾い読みして、わかったのですが陸軍一等兵、勲八位と名前がありました。石碑の高さは台座を含め、私の身長ほどありました。
日露戦争に従軍したご先祖様でした。
この写真がその方です。
写真をクリックすれば拡大されます。
明治の御世、この辺りは相当辺鄙な場所だったと思うのですが、このような地域でも村の人たちが戦争に命を捧げた方々を大事にし、その功績に感謝の意を示すために建てたことを知って、明治時代の空気を吸ったような気がしました。あの時代、国の隅々までこのような風潮があったことを実感しました。
40年近く前、仕事の関係で熊本に4ヶ月間ほど滞在した時、黒髪山(記憶では?後日、気になり地図で調べた所、黒髪町、立田山と思われます)付近に日露戦争で戦死され方々のお墓を見たことがあります。位は将校の方々と記憶しています。
しかし、個人名での石碑は無かったと思います。
この地域では一等兵でも個人名を彫り、その功績に感謝しているのです。
下の写真は慰霊の碑です。
当時の兵隊さんがいかに大事にされていたかを示すものです。裏を返せば同時の国際情勢が日本にとって危機的な状況だったとも言えるのではないでしょうか。
私の記憶では、子供心に映画などで知った知識ですがロシアの極東進出ではなかったかと思います。
帝国主義、覇権主義が当たり前の時代、国際社会では食うか食われるか当然のように行われていました。当時の国民は国の存続を守ること第一と世論は出来ていたのでしょう。
三国干渉という言葉も知りました。ロシア、ドイツ、フランスが清(当時の中国の呼び名)に、日清戦争で勝利し割譲されて日本の領土となった遼東半島を返せと干渉し、清に恩を売る形で、甘い汁を吸うために自国の権益を認めさせたのです。当時の日本国民は悔しい思いをしたことでしょう。映画でもそんなシーンがあったと記憶しています。
そんな背景があった時代、日露戦争で勝利したことはさぞ嬉しかったことでしょう。それも兵隊さんのお陰と自然に感謝の念が起きた結果といえます。
だから、石碑まで建てたのだと思います。
それにしても、国際社会のありようは当時も今も変わっていないような気がします。国際社会では国益優先が主題である以上、戦争と言う形でなくても争いごとは絶えないと思います。
国民の安全を守ると言う大命題を果たさなければならない国家はそれを忘れてはならないし、又、国民に対しそのため果たすべき義務を明確に伝えなければ成りません。
その関係が無ければ国体は揺らぎかねません。
明治の人たちはそれを理解していたのでしょう。
最近読んだ本に『合戦の文化史』と言うのがあります。その本の第2章に「古代日本の軍事体制」とあり次のような記述がありました。今から1500年ほど前の話です。
ちょっと長くなりますが、なんとなく今もこんな情勢下にあるような気がしたので引用します。
「・・・・・古代の日本は、先進国隋・唐の諸制度や文化の摂取につとめた。
その点からすれば、日本は中国文化圏の中の一後進国であった。しかし大化の改新、古代国家の誕生は、中国文化に対する憧れと言うよりも、むしろ大国隋や唐に対する脅威と、ナショナリズム的自覚により導かれていたのである。
6世紀から8世紀にかけての時代の、日本をとりまく東アジアの情勢は、今日の日本人には想像も出来ないほど緊迫した状況にあった。・・・・・中略・・・・・
7世紀にはいると、隋をたおして大帝国を築いた唐が、領土拡大をはかって朝鮮進出して、百済、高句麗を滅ぼし、百済救援のため出兵した日本軍も663年の白村江(はくすきえの)の戦いで潰滅した。
勝ちに乗った唐はいまにも日本に押し寄せてくるかの勢いをみせている。・・・・・中略・・・・・このような幼稚な部族国家が、唐の大軍の遠征を受けたらひとたまりもない。心あるものは、一刻も早い中央集権的な統一国家を待ち望んだのである。・・・・・」
この背景が、軍事体制として徴兵制度を確立していったと記述がありました。
そういえば、明治維新も西洋列強国の侵略を目の当たりにして、「清」みたいになってはと心配から起きています。
今の日本の情勢下、明治時代の日本人が今に生きていたら、どのような対応をするか興味があるところです。
毎年、8月になると先の戦争の特集記事が出ますがほとんどが個人の体験談が多いように見受けられます。そして見解は決して悲惨な戦争はしてはならないと言う反省の弁を記述するに留まるのです。
誰もが戦争はしたくはないと思います。どうして先の戦争が起きてしまったのか詳しく分析された特集記事があっても良いように思います。
一国だけでは戦争は出来ません、相手があって出来るもの当事国の歴史から大局的冷静な分析を持った新聞記事が書かれてしかるべきと考えるこの頃です。
8月15日は終戦記念日です。
以前ある時、当社を訪れた方と懇談していた時、8月15日は何の記念日聞いたことがあります。その人は知りませんでした。
戦後生まれの私にとって毎年、8月15日は物心ついた時からニュース、ラジオで知らされていたので忘れません。
今回の石巻市訪問の経験は改めて、お国のために命を捧げた人に対し深く感謝しなくてはいけないと思わされました。
下の写真は、他の石碑です。
<追記>
以前ブログで取り上げた文言を、改めて記述します。
葉隠の解説書を書いた神子 侃(ただし)氏は「はしがきに」こう書いてありました。
「だが、危機不感症的な泰平ムードの今日こそ、葉隠の中から前向きにくみとるべきものが少なくないのではあるまいか。」
昭和39年一月に解説書は出版されているのですが、40年以上前に日本が危機不感症になっていることを警告している。私は当時高校生でそのような風潮を感じていませんでした。
しかし、今はわかります。当時も今も同じ様な風潮があることを。
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