1月の中旬に、両親の故郷喜界島に嫁いだ姉から突然メール、「写真が見つかったかもしれない!熊本で出兵する時撮ったらしい!
明日、写真屋さんに行って確かめてみるから!」と入りました。
興奮している様子がメールから読み取れてきます。
その理由は、私自身亡くなった母が写真を常々探していたことを知っていたことからそのような様子が伝わってきたのでしょう。
生前、母は郷里に戻り姉と一緒に写真を探していたことを聞いていましたし、見つける事とが出来なかったことを大変悔やんでいました。
口癖のように「写真はどこかにあるはず」と言っていました。
そんな思いを引き継ぎ、あれから30数年姉も探し続けていたのです。
誰かがそれを聞き姉に教えてくれたようです。
その日の夜、再びメールが入り写真の状況を伝えてきました。
私は驚きました。
母があれほど探していた写真が今になって見つかるなんてと。
姉とメールのやり取りに彼女の興奮度が伝わってきます。
ご先祖様のお導きと、それは嬉しそうに書いています。
後日送ってきた写真がこれです。
撮影時期、明治37年11月14日とありました。
撮影場所、熊本市塩屋町 安田写寫舘。
まさにセピア色、1世紀の歴史を感じさせます。
今から108年前の写真、裏書の配列の説明から写真右から3人目の軍刀、サーベル?を持って写っている人が祖父です。
他の兵隊さんと違って、ベルト、長靴、手袋をして肩章も違うようです。
階級が高いのかもしれません。
私の知識では士官クラスの少尉から持っていたと思います。
日露戦争開戦が明治37年2月8日、それから約9ヶ月後戦況も激しくなってきたと考えられます。
どんな思いで撮影したでしょうか?
祖父、50代半ばでなくなりましたから。
当然ながら私、姉見たことがなく、
実際見た人がいるとしたら、80半ばの年齢でないとわかりません。
姉も実際あった人を島で探したようですが、私は川越に住んでいる叔母に連絡して聞いてみることにしました。
電話をすると叔母、「よく覚えていると」の返事、小学校の時、腹痛を起こして薬を貰ってすぐ直してくれたと記憶を話してくれました。
どんな容貌なのか聞いてみると、小柄で、髪型はオールバック風、色白でふっくらとした顔立ち、目元はあなたのお母さんに似ていて、品のある爺さんでしたと説明してくれました。
そんな説明を受けた内容を姉に電話で伝え、姉も祖父と確信できたようでした。
見比べると確かに母に似ています。
色白も一緒。
撮影時期が108年前、祖父が20代半ばの年齢と思われます。
年老いた写真が見つからない状況ですが、若いころの写真が有って祖父を見ることが出来た事は大きな喜びとなりました。
これで、生前母が言っていた事と摺合せできた事実もありました。
祖父は無資格ながら島で医者をやっていたこと、衛生兵だったので医術を身に付けたと言って居ましたから。
おとなしい性格とも、これも叔母の証言から頷けます。
母は孫にあたる私たちに祖父の顔を見せたかったのでしょう。
ここに来て、母の念願がかなうとは、確かにご先祖様のお導きです。
余談ですが、このころ奄美諸島は無資格で医者、お産婆さんをやっていた方は珍しくなく、民謡教室の先生のお母さん村の子供たちをたくさん取り上げたそうです。
考えてみれば、今ほど交通機関が発達していない戦前は奄美諸島は辺境の地です。
医者も居ないことから、医術を身に付けた祖父、乞われて診る様になってのではないでしょうか。
確か記憶では※沖縄?か鹿児島?へ医学の留学をしたと聞いています。
※明治中期沖縄には医学校がなかったかと思われます。
今は確かめるすべはありませんが。
ある事情で卒業せず医学の勉強は頓挫しましたが、その経験があったことから衛生兵なったのではないでしょうか?
母が言っていましたが、島にいた本当の医者より腕が良かったそうです。
人が良いものですから、診療代が取れず母は母親に連れられて家々に診療代を貰いに行ったと。
これも知恵なのでしょう、幼い子供を連れて行き、診療代の必要性を強調した事と思います。
祖父の長男に嫁いだ叔母にも写真を送る様にと頼まれ、スキャナーで取り込んで焼いて送ってあげました。
戸田の叔母も驚いて、すぐに姉に電話を入れたそうです。
この写真の発見は喜びと大いなる驚きでした。
明治37年の社長のお爺さんですか。貴重な写真ですよこれは。
拡大して額縁にしたいですね。
こういう人が頑張ったから今の平和な日本があるんですね。
このような写真を見ると、有難くて感涙します。
おはようございます。
一世紀以上前の写真、確かに貴重ですね。
見つかったと聞いたとき、「あったのか~」と驚きました。
生前、母口癖の様に「どこかにあるはずだと」言っていましたから、
思いが通じたような気がしました。
あの日露戦争の戦いで亡くなられた方に対し、当時の日本人がいかに感謝していたかということを立派なお墓を見た時に実感しました。
数年前、宮城の河北町にあるお寺へ行った時、その地から出兵された方々の墓所に戦没者の記念碑が建てられて居ました。
当時を想像するにこんな田舎の片隅にも立派な墓があった事から感謝していた思いが伝わったのです。
そんな経験、熊本でもありました。
43年前です。
場所、黒髪町にある公園?だったと思いますが、立派な墓所があり墓石の名を見ると階級が付いていて、日露戦争で戦死された方と分かりました。
日露戦争が日本にとってとても大事な戦いであったか偲ばれました。