国土を守るとは!

戦後の教育を受けた世代、日本は戦争して悪い国だから2度と戦争をしないと平和憲法を定めたと教えられた世代。
敗戦し日本人が自信を失い混乱した世相をうけて、戦争を始めた東条英機が悪いなどと子供の頃に仄聞していました。


この本を読んで、今思えば、当時の情勢下、東条英機氏とて立場から開戦と判断した事、結果として見せしめにされていたと後年思うようになりました。
高校生の頃、度々東条英機ら戦犯と呼ばれた人達が拘留されていた巣鴨刑務所のそばに行くことがありました。高い塀が印象的でした。
この本で、東条英機が残される家族に対し国民から誹謗中傷されることを憂いている記述がありました。東条英機とて「国の為」との信念で首相を務めていたでしょうに!
跡地には今では池袋サンシャインビルが建っています。

映画でも、「二等兵物語」など日本軍隊の印象を悪くする映画がたくさん造られていました。
中学時代に「三光」カッパブックスから出版された本を読み日本軍の悪行が書かれており、やはり「そうなのか」と思いつつ、「13階段階段への道」なる記録映画をみて戦争の悲惨さを知りました。戦後のある時期、この様な映画が良く上映されていたような気がします。
昭和34年製作された「人間の條件」がテレビドラマではも放映され反戦思想にとらわれた頃です。

そんな少年時代の記憶から日本軍の悪い印象を持って居たのですが、高校、大学と進むにつれに何か疑問を持つようになったのです。
その一つはアメリカ側の「ハルノート」、他に※真珠湾攻撃は事前に察知されていて開戦の切っ掛けとして利用し、真珠湾には空母を停泊させず、被害を最小限に留めたとか。
ルーヅベルト大統領をそれを参戦させるたもの方法として利用したとかなど、日本国を戦争に巻き込むような戦略をしたと思えるような話を聞いたからです。
それから幾星霜、78年経った今でも、国防に関する意識を国民に訴える社説(産経抄が出るのは何故だろう?

※日本ではアメリカ・イギリスという工業化の最高水準にある国家と対等に戦う戦争に突入し、しかも緒戦の勝利を占めたことで、民族的自信や自尊の気風が強まった。しかし、第二次世界大戦の経緯から見れば、真珠湾奇襲の意味は、アメリカの第二次世界大戦参戦(しかも感情的な日本の奇襲に対する反感を持って)が実現した、という点にあった。すでにヨーロッパ大陸では独ソ戦が開始されて大きく局面が変化し、ローズヴェルト大統領も参戦は必至と判断しており、真珠湾奇襲の4ヶ月前の8月、チャーチルとの間に大西洋憲章を出し、ファシズムとの戦いという戦争目的で合意していた。しかし国内では孤立主義に固執する人々や依然としてドイツよりもソ連を危険視する保守派も多く、参戦には踏み切れないでいた。ひそかにローズヴェルトとその閣僚は国民を納得させる参戦の機会が来るのを待っていたのだった。4月から続けていた日米交渉も、日本に譲歩する考えはなく、追い込んで戦争に持ち込みたいのが本音であったと思われる。日本軍の真珠湾攻撃はこのようにアメリカに参戦の絶好の口実をあたえたことになった。アメリカの参戦を心待ちにしていたチャーチルは、日本軍の真珠湾攻撃の知らせを聞いて「これで勝てる!」と確信し、その夜はぐっすりと眠れたと『第二次世界大戦回顧録』に書いている。ネット記事より

①の記述、昭和20年8月18日、ソ連軍が千島列島最北の占守島への上陸を開始すると、第5方面司令官樋口季一郎中将は直ちに命じた。占守島での激戦が、ソ連に北海道占領を断念させた一因と言われる。
この話は、いつ頃知ったかそんなの古くはないと思います。
どさくさに紛れて「火事場泥棒」みたいな所業に憤慨したと同時に、戦闘命令をした軍人さんが居た事を嬉しく感じました。
小学校の頃、家には戦前の地図があり、樺太半分までが日本の領土と記され、大陸と島に間にある海峡を間宮海峡と記されていました。
戦争に負けると領土を獲られるものと知りました。
北は樺太、朝鮮半島、そして南は台湾が領土として赤く地図で表示されていた事を思い出します。

②に記述では、昨年10月には樋口中将の功績を伝える銅像が兵庫県淡路市の伊弉諾神宮に建立された。除幕式のあいさつで、樋口中将の孫の隆一さんが述べた。「終戦時に樋口がソ連の北海道侵略を止めていなければ、日本はウクライナと同じ運命をたどったに違い」
戦後78年経ってやっとその功績を称えるに至るには時間がかかりすぎている。戦後レジームの影響を感じます。
不戦の誓い、不戦の誓いと毎年のように8月15日で誓い「尚武」を忘れた日本人。

③の記述がそれを物語っている、日ソ中立条約を一方的に破棄され国土を奪われた日本は、本来それを知っているはずである。
謳っているが、この事実を膾炙することをしなかった日本では国土を守る意識が薄まっている。

国土を守るとは、ウクライナ・ロシア戦争でウクライナ国民が立ち上がった事実を見れば自明の理。
自分たちの国の歴史・文化を守ることが国土を守る事、隷属されて国民として主体性が保証されない事を拒否したのでしょう。
それがまた、樋口中将が決意し戦闘を指揮した原点でしょう。

 

 

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