最近、朝のミーテイングで、塗装トラブル原因を調査する方法を学んでもらうため「監察医の現場検証方法」を上野正彦氏著書「死体は語る」を読んで聞かせました。それに用いた例は「幼児がやけどを負って死亡した事件」の話でした。
現場検証のやり方から、トラブル原因を調査する方法を勉強してもらうため現状を知るため4M(Man、Machine、Material、Method)の変化を調査し、その結果を分析し検証する事、それを果たすために足りない知識など分からない面はそれにかかわる情報を収集し原因究明する事などを話しました。
ミーテイングを済ませ、その本に目を通していると「責任」という章が目につきました。
目を通おすと、その話から小学校6年生の時、新聞配達をした経験が思い起こされたのです。
それは配達の朝、台風が来ていたのですがいつもの通り、任されていた区域蓮根団地近辺に配達に出かけ
たのです。
当然ながら雨の中、新聞は雨に濡れてしまいましたが、ある家ではこんな日に配達しなくてもと言われ、濡らした新聞を受け取ってくれました。怒られるかと思いきや優しい言葉をかけてくれて「ほっと」救われた気持ちなる経験もしました。
母親も心配して探しに新聞屋まで出向いたそうです。確か新聞屋近くの小川は氾濫して膝、腰までつかる状態だったとか!
12歳の子供だった私でしたが「責任を果たす」ということは理解していたのでしょう。
なぜ理解していたのかと思い浮かべると、まず浮かんだのが飯田町に住んでいたころ母方のおばあちゃんから言われた言葉・・・
「木口小平ラッパ死んでもラッパを話さなかった」という話でした。後々分かったことでしたが戦前の「修身教育」で教える話でした。
修身では「義勇忠義」の徳目の一つとして教えたようですが、子供心に「役目を立派にやり遂げた」と理解したようです。
戦後生まれの私は、飯田町に住んでいましたので、靖国神社、軍人会館(今は九段会館)、乃木神社、東郷神社などが近辺にあり、ほかに切手収集からも戦前の様子が見て取れる頃で、大人たちからは戦前の日本の様子を知る話が聞ける時代でした。
※ 死体は語る「責任」の章の内容は後日、ご紹介したいと思います。
明治時代、7~8歳になった少年が砂糖のお買い物を頼まれ数十キロの道のりを歩き買い求める話です。
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