ニュースでトルコの軍部によるクーデターが起きたと報じていたが、すぐに鎮圧されたようです。
エルドアン大統領の呼びかけに呼応して国民も行動を起こし、支持がないことが証明された。
しかし、※アラブの春と言われた「民主化運動」によりアラブ世界は混乱をきたしている。
そんな情勢の中で何故トルコが?と一報を聞いた時感じました。
政情が安定している国と思っていましたから!
※「アラブの春(アラブのはる、英語: Arab Spring)とは、2010年から2012年にかけてアラブ世界において発生した、前例にない大規模反政府デモを主とした騒乱の総称である。2010年12月18日に始まったチュニジアのジャスミン革命から、アラブ世界に波及した。また、現政権に対する抗議・デモ活動はその他の地域にも広がりを見せており、アラブの春の事象の一部に含む場合がある。各国におけるデモは2013年に入っても続いた。なお、“Arab Spring”という言葉自体は2005年前後から一部で使用されていたものである・・・」ウキペディアより。
エジプト、リビア、シリアの混乱からEUは難民問題を抱え、「イギリスEU離脱」までに波及している。
ネットニュースでは失敗の原因を、次のように報じていました。
「・・・クーデター失敗の原因について、内藤教授は「二・二六事件 と同じ、一部の将校たちによる反乱だったから」と指摘する。」
中学生の頃、社会科の歴史で学ぶ有名な昭和11年の「二・二六事件」、そして昭和7年の「五・一五事件」。
そして、社会人となった翌年の昭和45年11月25日の「三島事件」がクーデターとして記憶にありますが、
このニュースを聞いて、他に思い出したクーデター事件があります。
それは私が中学生の頃、その中学校に在籍していた先生が関わった事件でしたので記憶にありました。
当時は、中学生でしたので詳細な事は理解できませんが先生が逮捕されたことが印象的でした。
ネットで調べると「三無事件」と呼称されており、年代的にも昭和36年とありましたので間違いないようです。中学3年生の頃と思われます。
「三無事件(さんむじけん)は、1961年(昭和36年)12月12日に日本で発覚したクーデター未遂事件。川南工業社長の川南豊作を首謀者として旧陸軍出身者らが日本政府の要人の暗殺を計画し、未遂に終わり警視庁により逮捕された。発生当初は国史会事件と称された。
破壊活動防止法が初めて適用され[、有罪判決が下された。
1961年12月12日に警視庁等が32箇所を捜索、川南豊作他13人を逮捕し、日本刀8振、ライフル銃2丁、防毒マスクなどを押収した。
三無とは無税・無失業・無戦争の「三無」という主張である。無気力・無関心・無責任の1970年代の若者気質をさした「三無主義」とは関係がない。1970年の三島事件の先駆となった。」ウキペディアより。
逮捕されたと記憶している先生ですが、確か頭は丸刈りで印象の強い方でしたが、この事件の内容を読むと戦後の政治体制に義憤を感じての行動かと思いますが!?。
昔の百姓一揆なども生活に困窮し、不満を統治者にぶつける行動、時代時代どんな統治システムでも国民大衆を満足させることは困難でしょうが、行動を起こす人たちにとってはやむにやまれぬ思いなのでしょう。
昭和36年当時の世情を思い起こすと私は何故かと感じます。
しかし、三島由紀夫の行動、あの事件今この年になってその思いは理解できます。国家の根本的な存続にかかわる事を主張しています。
「三島由紀夫 行動する言葉100」に拠れば、二・二六事件の内容を次のように解説しています。「二・二六事件と三島 二・二六事件はもともと、希望による維新であり、期待による蹶起だった。」
解説には、
「二・二六事件とは、若手陸軍将校たちが、自分たちの指揮下にある部隊を私的に動員して、首相を初めとする主要閣僚他を襲ったクーデターである。彼等の頭の中では、自分たちの誠心は必ず天皇に届き、私利私欲を貪る政治家、重臣、財閥が除かれ、天皇によるユートピア国家主義的政治が誕生すると信じ込んでいた。その意味で、この決起は世界史にもまれな、「待ち」の革命であった。『英霊の聲』を書くきっかけにもなった磯部浅一の獄中手記について、三島は「凄まじい呪いを奔騰させて」いると述べている。それは信じていた天皇に裏切られたという思いだ。三島はこの4年後、市ヶ谷の自衛隊のバルコニーで、同じ思いをすることになる。」
この記述通りでしたね。檄を飛ばしても自衛隊員は動かなかった。
時代は動く、歴史は動く、このトルコクーデーターは鎮圧されたが、余燼が残りこれからどう動く?
中東の新たな火種となり、混乱へと!
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