昭和35年、板橋区前野町で産声を上げました。 戦後15年、日本が工業国として発展をしつつある時期でした。 あの頃、工場の周りに畑もあり都市郊外の風景が残っていた時代。 創業者のオヤジは、叔父が池袋で塗装工場を起こした縁で、奄美喜界島から上京。大正11年生まれ、尋常小学校高等科を卒業した年を考えると14、5歳ですから、恐らく昭和10年ごろの入社だと思います。 叔父が創業した頃は昭和初期、世界大恐慌の時期と思われます。 私の叔母(父の妹)の話だと夜遅くまで働いていたと言っていましたから仕事の注文が多くあったのでしょう。 当時、東京光学からカメラ、双眼鏡の塗装を手掛けていたので、軍国日本の軍需産業に携わり忙しかったのでしょう! 東京光学は陸軍の御用達、双眼鏡は7×35の物だったようです。 そして戦災で工場は焼失、戦後勤め口が無くなり、生活の為露天商、上野の山で団子売り、上野松坂屋の前では※タイガー紙を売っていたとか、※親父が言うには煙草の巻紙に使うもの。 そしてノートの行商を始めます。親類、友人に印刷関連の仕事をする人がいてその伝で、ノートを仕入れしてリヤカーに乗せて早稲田から大宮まで売り歩いたそうです。叔母が言っていましたが、そのリヤカーとても重く手伝いで後押しをするに苦労したと。 それが当たり飯田町に文房具屋を開きますが、昭和30年に入るとある事情から店を止めて、その後塗装工場に4年ほど勤め、そして創業したのです。あれか ら55年の年がすぎ、そして平成の御代、平成大不況を経験し55年をむかえました。
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