岩手にいる親戚が書いたブログを読んで関心が行った文字、「浄屋」。
岩手山の御神体を崇め、山岳信仰を行うために身を清める場所のようだ。
戦前その浄屋はあったそうですが、今はなくその場所にお堂が建てられました。
そのブログによれば、「今のお堂は、夢枕にお告げを受けた古老が、数十年前に建造されたものです。」
そのお堂がある場所がその親戚の土地。
人知れず立っているお堂にもそれなりの由来があることにも関心が向きました。
お告げとはどんな内容だったのでしょう。
知りたくなりますね。
想像ですが、長く続いていた山岳信仰、その「行」に参加された方々の思いが込められたいた場所。
粗末にできないのでお堂を建て参る様にとのお告げではなかったでしょうか。
岩手山についてネットで調べるとこんな記事がありました。
「このように蝦夷最深部にある山がこんなに多くの都人に詠まれるとは真に不思議だ。山頂が岩手郡滝沢村・雫石町・松尾村・西根町の岩手郡4町村の境界点となっている。また早池峰山・姫神山と共に岩手三山と呼ばれる岩手山は盛岡市北西約13kmにある標高2039mの県内最高峰であり富士山が国民の象徴的存在同様県民の象徴であり心の拠り所でもある。だから愛称も岩鷲山・岩手富士・南部富士・南部片富士・霧山岳・奥の富士・等と多様である。「岩手郡なる諸山に秀でたる高山なれば、即郡の名を負て岩手山とはいふ也」と奥々風土記に載っている。岩手山信仰は山そのものがご神体となっていてる自然信仰に坂上田村磨による国家鎮護の三尊阿弥陀を安置(807年)し他に薬師・観音信仰などが加わり岩鷲山大権現となり地元の信仰を集める。1872年まで女人禁制の山であった。 所で岩手三山の岩手山・姫神山・早池峰山は男女の三角関係伝説があり面白い。岩手山は姫神山と夫婦だったが次第に早池峰の女神に心奪われてしまった。彼女は北上山脈最高峰の山だけに想いは募るばかりで、女房の姫神の箸の上げ下ろしまで嫌になったと言う。岩手山は送仙山の神に「一夜の内に我が目の届かぬところに送り出せ」と命じた。姫は夫の心変わりに泣く泣く岩手山から去るがその足取りは重く遅々として進まない。翌朝岩手山が目を覚ますと姫神は未だ岩手山の東の手の届く所に聳えていた。怒り狂った岩手山は大爆発を起こし噴煙・溶岩を吹き上げて暴れまくった と言う。・・・・」
日本神話は面白いですね。
しかし、そこには日本人が古来培ってきた精神的源流があり、
だからこそ、各地で何百年と続く祭事があるのです。
これからも大事にしなければ、
お堂を建てたのもその現れなのでしょう。
人知れず、その地に佇むお堂の歴史、何にでも由来はあるものですね。
「神様からご褒美が!?」の経緯はこちらのブログに。
神様・・・
江戸中期の国学者・本居宣長(1730~1801)は『古事記伝』(巻之三)の中で、「尋常ならずすぐれたる徳ありて、可畏き物」を「迦微」と指摘している。これは神の定義としては、実に明解で、すぐれたものである。さらに宣長はその自註のなかで「龍樹霊狐(たつこだまきつね)などのたぐいも、すぐれてあやしき物」だからカミになると語っている。すなわち、宣長は一種のアニミズム的視点から、人智では理解できないものや、そうした働きを<カミ>と名づけたわけだ。その意味では森羅万象の要素の一つである「火」や「水」も、それ自体が充分に<カミ>として契機を備えているといえよう。「神道のすべて」より。
自然の営みに<カミ>を観るということですか。
噴火を怒りと感じるのもそれだ!
社長、こんにちは。
>自然の営みに<カミ>を観る
「雷」も「神鳴り」から来ていますしね。
因みに、私の地元には「竜」が付く地名が多くあるのですが、これは利根川沿い、
雷の通り道で、雷がとても多かったことから雷光を竜に見立ててそのようになった
そうです。
米の祝福さん、
こんにちは。
いつもながらブログに関心を寄せていただき有難うございます。
利根川沿いといえば、群馬、埼玉、茨城、千葉と流れ「坂東太郎」と言われますね。
茨城県あたりに竜がつく地名が思い浮かびます。
神道等を学ぶと、ご先祖様が自然災害、地震、雷、噴火、津波地等に遭いながらも、
生き抜いているのは、やはり神道の精神に拠るところがありますね。
自然に対する畏敬の念、自然との共生等、世界に誇れる精神文化と思います。
三千年の歴史に育まれた文化ですから。