昨年5月にこの制度が始まり、1年以上が経ちました。
俳優押尾学が麻薬MDMAを飲ませ、彼女を見殺しにしたと裁かれている裁判が行われています。
このようなケースで裁判員裁判が行われることが初めてなのでしょうか注目度が高いようです
確か、これまでの裁判の在り方の反省から生まれたと聞いています。
専門にしている裁判官だと生活感から乖離してしまう欠点を補い、市民生活目線で、裁判をする様にと改善目的で始まったと聞き及んでします。
自分が裁判員に選ばれ、裁判にあたっていたとすればどんな判断、裁定を下すのか考えてみると。
事件のあらすじは、
マンションの一室で、事に及ぶ前に麻薬を彼女に飲ませたら、痙攣をおこし容体が悪化したにもかかわらず放置して死亡させたとして、保護責任者遺棄致死の罪に問われた事件です。
119番通報せず彼女を放置した、しないが、どうも罪に問われる分かれ目のようです。
メディアから得た情報だけで判断すると、保身に走り、通報しなかったのが事実のように思いますが。
法的判断は、感情を排除し冷静に裁くことを旨とするので、法律が判断基準となり、それに該当しなければ無罪、すれば有罪となる。検察、弁護側が法律に則り証拠をたて、実証して行き、考えを述べそれぞれの立場から有罪無罪を立証していく形です。
今回は市民から選ばれた裁判員も裁定に加わります。
証人喚問で聞く内容を加味しながら、専門的知識のない裁判員が裁くとなれば、自分が培ってきた道徳感、もしくは常識という道義的価値観から判断しなければならないと思うのです。
その判断から出てくるものは、どのような状況から起きたのかがポイントなるのでは。
被告はMDMAを所有していて、かつ常習的に飲んでいた。
死んだ彼女も常用していた。
この時点で両者は罪を犯しています。
事に及ぼうとして両人がMDMAを飲んだところ、彼女が痙攣し容体が急変、その場にいた押尾学の対応は、119番通報せず、人工呼吸、心臓マッサージを行い助けようとした。
助ける気があるならやはり「119番通報」でしょう。
それがされていない。
保身に走ったと言われても仕方ない状況。
「人」として問われる行為となるのでは。
彼女が死んでいるので、「死人に口なし」と自分の都合のいい事を言っても誰にもわからない。
確か、「法律は社会生活で守るべき最低の道徳」という言葉を聞いた事があります。
見殺しはしていない、やるべきことはやったと主張したのは弁護士と法律上の判断で、相談したうえでの言葉としか受け取れないでしょう。
やはり、私が判断するとすれば有罪。
検察側の論告・求刑は懲役6年、評論家など「思った以上に軽い」との発言もありました。
最終的には懲役2年6ヶ月となった。
保護責任者遺棄、保護責任者遺棄致死が裁判の論点のようです。
この制度はアメリカの陪審制に似た点もあるのでしょうが、その制度も運用によっては問題も抱えることになると思います。
アメリカ陪審制の裁判の例を挙げます。
まったくおかしな裁定が出た例です。
「訴訟のことを例にとっていえば、アメリカは、莫迦げているとしかいいようのないような訴訟社会を、陪審制という民主的な偽装の下に作り上げてきた。自分の卒業校に泥棒に入って運動場の窓枠から転落して大外傷した少年の家族が、その窓枠の修理を怠ってきたのは学校側の責任であるとの理由で、巨額の損害賠償をせしめた。元はフットボールの大選手にして今は芸能界の有名タレントでもあるが、取調べに当たった刑事の人種差別的言動という犯罪とは無関係なことが決定的な要因となって、その妻殺しから無罪放免となった。しかも被害者の家族から起こされた民事訴訟では有罪という噴飯ものの結果になっている。さらにつけ加えれば、カリフォルニアでは、7歳の少年が学校においてセクシャル・ハラスメントをやるのを容認したとの咎で公共当局が3000万円の慰謝料を払い、フロリダでは6歳の少年が、慰謝料支払いのことを懸念した学校当局から退学させられている。」
この記述、「日本人と武士道」を書いたアメリカの方。
他に、コーヒー店で出されたコーヒーが熱くてやけどしたからと言って訴訟など、言いがかりしかと思えないことがアメリカで多々おこります。
様々な民族の集まり、新しい国がその様な考えを育てたのかもしれません。
陪審制が訴訟社会のアメリカで機能していないことを挙げている。
学校に泥棒に入ったこと罪に問われない。
フットボール選手、妻殺しの罪に問われず、無罪放免、人種差別的言動があったというだけで。
いちゃもん付けて3000万円獲得。
当局、問題回避のために退学処分。
書いてある通り莫迦げた話です。
こんなこと、陪審員に選ばれた人の個人的感情で裁定される危険を示唆している様な気がします。
映画などで、被告が黒人、陪審員が白人だけとなると被告は不利になるなどという場面もあります。
俳優兼監督 クリントン・イーストウッドの「ダーティ・ハリー」じゃないけれど、犯人と判っていても司法制度の面倒な手続き、証拠、証拠と立証するものがなければ罪に問えないじれったさ。
それを痛快に、ダーティーハリー、自分の判断で行動してしまうのが受けるのでしょう。
そんな思いを持つアメリカ人もいるから、映画「ダーティー・ハリー」がヒーローになりヒットもしたのでしょう。
この方、日本が過去アメリカから持ち込んだ価値基準で日本社会を変えていく事に警告を発しているのです。
こうも書いています。
「・・・というのも、アメリカからのいわゆる規制緩和の要求に素直に応じるのが日本社会を改善する唯一の方途としてみなされているからである。行政指導をめぐる政府の慣行や談合をはじめとする産業界の非公式の規則を日本社会からすべて追い払ってしまえ、というのがアメリカの要求だ。それに従えば、残る規制は法律によるものだけになり、それゆえ、社会の利害調整は訴訟によって決せられるという方向に入っていく。その果てにはアメリカ的訴訟社会が待っている。・・・・」
日本で、「そんな社会がいいのか」といった議論を私は日本人から聞かされていないとも書いてあった。
談合ですが、建築業界に身を置く人が言っていましたが、「多くの会社が寄り集めって仕事をする。談合なければ仕事はうまくいかない。」
談合といえば談合入札という事から、公平な入札されないものと新聞メディアが批判し、負のイメージがありますが、業者に仕事を公平に分けていた面もあると聞きました。まして、たくさんの業者が集まってする仕事、談合なしにはうまくいきません。
悪い点だけ強調して批判するのは片手落ちです。
アメリカの要求を受けて慣行、談合を排除すれば訴訟社会になってしまいますとは。
訴訟社会の問題点をついた著者の弁。
談合の意、「話し合うこと、相談」とあります。
押尾学にこう言いたいです。
「胸に手を当て思い、恥じることはないのですか」と
英語圏暮らしの経験があり、頭も英語的になったのでしょう。
今までの日本人にあった思考はないのでしょう。
裁判でも、証言に英語を使って言い逃れしています。
先の例で挙げたように、アメリカ的発想で自分の正当性を主張しているのでしょう。
証拠がなければ罪にはならないと、一点張りでどこかの党の政治家と一緒のようです。
まだ、日本社会では「大岡裁き」という言葉が尊重されています。
正直に証言すれば、亡くなった彼女の両親も罪を許す気にもなるでしょうし、詫びの言葉を聞けば心の整理もつけられるのでは、まだ日本人の心情はそれほどアメリカ的になっていません。
エゴだけで弁明に執着して証言を偽っているのは、後々、自身にとって良い事とは思えないのですが。
潔く、罪を認めたほうが刑は軽くなっていたかもしれません。
「法律は社会生活で守るべき最低の道徳」
一段上の道徳を思い出し、あらためてほしいものです。
制度は所詮人が考えて作られるもの、完璧なものはなくどう運用するかにかかるのでしょう。
10月1日のネットニュースで、報道によれば「逮捕や起訴に問題があり、不当だったのではと憤っている」と報じ、1審判決では致死が認定されず、押尾被告は、抗告が認められ保釈の可能性が高まったと期待しているとも報じた。
何ををして「不当」というのか、裁判をゲームみたいなものと思っているのでしょうか。
良心に問うべき事なのに、反省はないように思われます。
参考資料
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