インターネットニュースをみていると、紫電改エンジン「誉」見つかるの見出しが目につきました。
「太平洋戦争中に旧日本海軍の戦闘機「紫電改」などに搭載された高性能の国産エンジン「誉(ほまれ)」の主要部が、呉市広黄幡町の米陸軍広弾薬庫の地中から見つかった。寄贈を受けた大和ミュージアム(呉市)は28日までに洗浄・保存処理を終え、6月3日からの企画展で初公開する」中國新聞より。
零戦の後継機として紫電を改良した戦闘機で「紫電改」、その戦闘記録を書いた本を読んでいたこともあり関心を呼びました。
2002年6月10日発刊
大東亜戦争末期、本土防空の精鋭部隊として、熟練パイロットを選りすぐり編成された別名剣部隊。
「隼部隊の壊滅後、空いていた同隊の名を引き継いで開設され、大戦末期の日本海軍航空隊では、ほぼ唯一、まともな制空戦闘が可能な練度を持つ部隊であった。1944年(昭和19年)、源田実大佐の着想によって創設された。思想的には優秀な人員と新人を混在させた事で、航空隊全体のボトムアップを図ったがため、大戦末期の烏合の衆と成り果てていた日本海軍航空隊の中では、例外と言えるほどの平均練度を誇った。また、機材も日本海軍最後の希望と目された紫電改を独占的に配備していた事、当時まで生き残っていた熟練搭乗員も多く在籍し、活躍した事から、ドイツ空軍の第44航空団と双璧を成す、枢軸国軍が最後に生み出した精鋭部隊とされている場合が多い。 実際の構成は新人のほうが多めであったが、日本海軍航空隊では唯一無二、終戦まで孤軍奮闘した、大戦末期の状況下でまともな制空戦闘が許された部隊の一つなので、日本海軍航空隊の有終の美を飾ったと評価されている。」ネット記事より。
この本には源田司令の印象を次のように綴っていました。
「・・・源田は忌憚のない口調で告げた。菅野(大尉・隊長)は驚いた。これまでの司令の訓示と言えば高圧的で精神論の類が多く、漠然として中身がないものと相場が決まっていた。だが源田司令は開口一番、我が方は負けている現況を素直に認めた。『源田司令は道理のわかるお人だ。どうせ我が方は背水の陣におかれているんだ。こうなったら何にがあっても、司令についてゆく』菅野は決意を新たにした。夕食後、源田は士官室で菅野や鴛淵と語り合った。凛々しい顔つきの源田の頬がゆるむと、目尻に深い笑い皺ができる。一見、威圧的で無愛想な仮面の下には、人間味あふれる心が宿っている。菅野は慈父のように感じられた。源田は40歳、不惑を迎えていたが、けっして老け込んではいなかった。・・・」掲載写真の本より。
戦況的には不利な状況に追い込まれていた日本だが、そこには闘志あふれた戦闘機乗りが集い、リーダーとして人望と知性があり、軍人の威厳を備えた司令の下、戦いに臨む戦闘集団が構築されていた。
当時として40歳は老いた時期と見られていたのでしょう。しかし、その存在は彼らに勇気を与えたようです。
どんな集団でも優れたリーダーは不可欠の様です。
ここで紫電改のスぺックを記します。
全長:9.35m
全高:3.96m
翼幅:11.99m
最大速度:594km/h (高度5.600mで)
航続距離:2.400km
武装:20mmキャノン砲×4 爆弾500kg
乗員:1名
この高性能な戦闘機の相手は、アメリカ空軍の主力戦闘機、
グラマンF6Fヘルキャットのスペック
全長:10.23m
全幅:13.06m
全高:3.52m
エンジンP$W12-2800-10(2000馬力)
最大速度:603km/h
航続距離:1759km
武装:12.7mm機銃×6 爆弾454kg
他に、対した戦闘機、チャスボードF4Uコルセア、ロッキードP38ライトニング、爆撃機コンソリデーデットB24リベレーター、カーチスSB2Cヘルダイバー他、そして東京空襲でも知られたB29。
紫電改、グラマンと大きな違いは武装となります。
これにより、戦術的な違いが出ていたのです。
銃弾の大きさの違いから、紫電改に積める弾薬の重量からヘルキャットに比べると、13mm機銃を含めそれぞれ200発で計800発で多く詰めず、従い無駄遣いを避けなけらばならず、命中率を高める必要があり、接近して射撃を行う必要があったようです。
余談となりますが、B29は私が住んでいる近辺の川越市寺尾に墜落したと床屋のおやじさんに聞いたことがあります。
本人が10歳の時の出来事、野次馬根性で現場に行った時、焦げた臭いと飛び散った肉片がみえたそうです。
第343航空隊(劔部隊)が決戦に挑んだのは、3月19日(昭和20年)未明、索敵に出ていた彩雲(偵察機)の一報、そして緊急信午前6時15分「敵機動隊、見ゆ!室戸岬の南30海里(約550キロ)!
「全機攻撃」の命令一下、出撃。
その戦闘の様子、
「・・・鴛淵は無線電話で命じると左旋回しながら降下した。16機の編隊を誘導し、※本流に流れ落ちる滝のように敵編隊の斜め前方から襲いかかった。
※戦法的には敵より高度を取って襲撃するのが定法らしい。
敵編隊は小隊となって 散開しようとするが、すでに遅い。鴛淵はスロットルレバーについた機銃の引き金を握った。・・・第一撃で大きな損害を受けた敵編隊は浮足立った。
これまで日本上空に飛来しても、邀撃らしい邀撃を体験したことはない。ほとんどのパイロットは、日本にはグラマンに太刀打ちできる戦闘機も搭乗員も存在しないと思い込んでいた。南方の戦線で零戦を撃墜してきたベテラン・パイロットの中には※「日本の戦闘機など恐れに足りず」と慢心していた者もいた。彼らにとって初めて出会う強敵だった。パイロットたちは、「こんなはずはではない」と焦った気持ちのまま、ヘルキャットに劣らないスピードで駆け抜ける新型戦闘機に怯えた。たまらず本隊から離れるヘルキャットが何機かあった。
鴛淵隊は訓練通りに4機ずつの区隊、最低2機ずつでもって立ち向かう態勢をとり、はみだしたてきた敵機を追った。ヘルキャットは急旋回して紫電改から逃れようとするが、※自動フラップのある紫電改を振り切ることが出来ず、たちまちに追いつかれて撃墜されてゆく。・・・」掲載写真の本より。
※「日本の戦闘機など恐れに足りず」と思われていたのは、
マリアナ沖海戦(1944年6月19,20日)で、アメリカ側は七面鳥撃ちという位に零戦を撃ち落としていた経験から。
日本側ミッドウエー海戦で優秀なパイロットを失っていて、急造した経験の浅いパイロットだった事と、
当時零戦は性能的にも劣勢になっていたことなども要因。
※ここが紫電改の性能の高さを示す点。
※自動フラップのある紫電改を振り切ることが出来ず、
名の通り紫電戦闘機の改良型、紫電改と呼ばれた理由。
主な改良点:
● 中翼→低翼 主脚2段式が構造が複雑で故障しやすかったが低翼になり収納も早くなり故障もなくなった。● 水上戦闘機「強風」に搭載された自動フラップ改良型を搭載。これにより旋回性能が増して空中戦に生かされた。
● エンジンは零戦の倍の2000馬力。
本土防空の作戦に集められた優秀なパイロット達と、優秀な紫電改があって戦えたのでしょう。
最後に、松山第343航空隊(剱部隊)の主なメンバー
源田実大佐 航空隊司令
菅野直大尉 飛行隊隊長
鴛淵孝大尉 飛行隊隊長
林喜重大尉 飛行隊隊長
武藤金義少尉 飛行隊隊長
坂井三郎少尉 飛行隊隊長
杉田庄一上飛曹 飛行隊隊長
祖国防衛のため死力を尽くし戦った先人たちに敬礼!
他のパイロット達とともに、靖国神社で再会を果たしている。
他に所有している紫電改に関する書籍。
1987年7月13日発刊
この本の著者、しっかりと書き残さなければと強く思っての事と思います。
参戦した若者大正生まれの年代がほとんど、体験者が高齢になっている現状を踏まえて!
大東亜戦争を正しく伝えようと。
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