宮内庁が編纂した「昭和天皇実録」の出版が報道され大きな話題となる中、ネット記事に次の記述を見付けました。
・・・産経新聞では9月14日より、宮内庁が編纂した《昭和天皇実録》の内容につき随時掲載を始めた。初回は先帝(昭和天皇)陛下と、陛下の人格形成に影響を与えた大日本帝國陸軍の乃木希典大将(1849~1912年)に焦点を当てた。明治天皇(1852~1912年)の大喪儀が行われた大正元(1912)年9月13日、乃木が妻とともに自刃し、それを聴かれた当時11歳の昭和天皇は《御落涙になる》・・・
25、6年前の雑誌「プレジデント」で、乃木大将が殉死する直前先帝昭和天皇にお別れを告げる場面の記述を読んだ記憶があります。その時乃木大将のお別れの言上は沈痛を極めてとあり、その時を思い出され御落涙あそばされたのではと思いました。
その雑誌の表紙捨てがたく切り取り昭和天皇の肖像画を額縁に収めました。
こんな表現は畏れ多き事かもしれませんが、小さい頃目白通りで陛下をお持ち申し上げていると、
ロールスロイスの乗った陛下が歩道に立っている私に挙手されたのです。
子供心に偉い人に挨拶されたことが強い印象となり、その事がどういう事か理解できて感動したのです。それ以来成人した時はご尊敬申し上げるとの感情を抱く事になりました。
それが証拠に、大学一年生の時受講生100人以上いる歴史授業で蔵並先生が、今上天皇は何代目かと質問を受けた時、すぐさま挙手、124代目と答えると手を挙げたのはお前だけと言いつつ、学部を間違えてと諭されました。
工学部より文科系向きと思われたのでしょう。
昭和天皇陛下に関する書籍は目に付けば購入しました。
それにテレビ報道で、皇后陛下に対する気遣い、思いやりを感じる場面を幾たびも観ていると、
人として立派な方だと思えさらに尊敬の念は増幅されました。
内親王様が4人続き、なかなか親王様がお生まれにならない時、側女をとの進言も退け、良宮でよいと申されて、今上天皇がお生まれになりました。
そんなエピソードを聞き、子供の頃に感じた誠実さが思い起こされました。
その様なご性格、乃木大将の教え守り帝王学を実践された立派な人物と思うのです。
乃木大将と昭和天皇のお別れの場面が「中朝事実」の例言に記されています。
そんな思いで読むと、乃木大将がいかに真剣に帝王学をお教えになったか推察されます。
その例言を紹介します。
旧漢字使いですが、当用漢字にて記述します。
「去る10日(大正元年9月10日の事也)東宮裕仁親王殿下陸海軍少尉に御任官あらせられたる時なりき。故乃木大将は午前10時頃東宮御所に参候し(略)大将は親しく拝謁し先ず御任官の御祝いを言上して後深く思い入った様子にて『今日は御任官の御喜びを言上するためのみならず、小官の微意を少しく申し上げたくて参上せり。特に小官は今回コンノート殿下の御按伴を命ぜられて当分御殿にまいる事もなかるべければ猶更此際殿下の御将来につきて申し上げたし』とて懐中より『中朝事実』と云う一書を出して恭しく殿下に献上し極めて低き音調にて『他日殿下が一天万衆の尊貴に立たせ給うべき時のご参考となるべきもの、此書中に多きを信じて要所、要所には小官自ら朱点を加えあればくれぐれもご精読御吟味を謂いまいらすなり。殿下は今はご幼少にておわせば、文中或る御難解の所もあらせられるべきも、其の折は近侍の人々に御下問を賜り、御説明仰せ付けらるるよろしかるべし。殿下は陸海軍の将校として今日実地の御学問もあらせられるべきも、其の他にも皇太子として更に必要の御学問もあり』との旨言上し、語々沈痛を極めて次第に情の迫れるご如く(下略)。大正元年9月16日万朝報記載)」。
上記の記述はこの写真に収まっています。
この時、プレジデントの記述によれば、弟君秩父宮、高松宮様は乃木大将の沈痛な言上に気圧されてその場を去ったとか、しかし裕仁様は動ぜずしっかりと乃木大将もお言葉を受け止めたとか。
だからこそ、11歳の幼少ながら乃木大将の殉死を知り御落涙されたのではと思います。
昭和の激動の時代、私心無き人生を全うされた唯一無比のお方と思っています。
日本が誇れる皇室文化で育まれた偉人です。
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