小さい頃から、聞かされていた伝説、俊寛の島流し、天女の羽衣、5つの甕、鎭西八郎為朝の雁股の矢の泉など。
便利な時代になりました。
母が話した民話・伝説がこのようにネットで知らべられる時代に!
俊寛は歌舞伎でも演じられている話と、子供が甕で流れ着いた、羽衣を干す、雁股の矢を放ち刺さったところから水が出たなどおぼろげながら記憶に残りました。
母が語ってくれた言い伝え、そんなことがあったのか程度の認識で受け止めていましたが、ある日、民謡教室の仲間が教えてくれた本がこれです。こんな本が出版されていると「喜界島・鬼の海域」。
読んでいると、「五つのカメ」の記述があったのです。
そうだったのかと母から聞いた話を確認するように読みました。
喜界島に関心を持ち、本にする人がいるんだと手にしたときの印象でした。
5つカメ、盗難にあい今は三つのカメが中央公民館に保管されているとか、母が幼少の昭和初期には八幡神社の境内の草叢に置かれていたと。母はこれを見ていたのでしょう。本によれば、一つは浙江省、越州窯で12世紀前半に生産されたと推定される越州窯青磁刻花文水注(水差)。
もう一つは、中国福建省で生産されたとみられる褐釉双耳注口付壺で、年代は11世紀から12世紀前半と考えられている。もう一つは鹿児島県日置郡金峰町で生産されたとみられる須恵器双耳長胴瓶、やはり同じじ時期です。
この本でいうように、そのころ喜界島は本土への交易の中継基地としての役割があったのでしょう。
母方の系図では、15,6代の歴史がありますが、さらにそのころ住み着いた人々が私たちの祖先となるのでしょうか?
でもそのころ薩摩の圧政はなく、自由な暮らし向きであったかも。
48年前に一度だけ喜界島に行ったことが、満点の星、碧い海、ガジュマロなど南洋を思い起こさせ風土・気候、北国と違いのんびりと暮らせる島だったのかな、南の島の風土を想像するに。
五つのカメ…
「昔、琉球のあるところに、11歳を頭に5人の子供をもった一人の女性がおり、王様に上納する絹布を織らされていましたが、上納期日に間に合わせるために、5人の子供を舟に乗せ、一人ずつ壺(カメ)をあたえ、それに紐を結び、子供たちと合図をはかっていました。ところが母親が機織に熱中している間に合図がとぎれ、舟が姿を消してしまいました。母は狂気して探し求めましたが、夜の闇のなかで、絶望してしまいました。母親は「あの子供たちがどこでもいい、無事着くように、神となって拝まれるように」と、祈るほかありませんでした。舟は、波のまにまにゆられ、喜界島小野津の御神山海岸の泊(港)に漂着し、5人の子供はカメを一つずつ抱えて上陸しました。ところが、ヤドガリ(アママー)と遊んでいたとき、舌をかみ切られ、苦しみながら死んだと伝えられています。」、死後、御神山の林中に葬られ、それらのカメは、各々の上に置かれたとされています。
この伝承は子供でありカメでありかみであり、おがみ(御神・拝み)山で祀られる(祈願される)ご神体でもあるものについて語っています。カメが海の彼方からもたらせたこと、神秘的な由来を持つこと、一年の豊凶を占う呪具であると同時に、村落の人々にとって身近な場所におかれていたこと、などを喜界島の五つのカメのあり方として伝承を示しています。・・・・
小さな島ですが、伝説があり歴史的に興味ある地域なのかな。
小野津、前金久が父、神宮が母の出身部落です。
生れたのが大正のころ、電気はなく、みそ・醤油などは自給だったとか。
やはり、離島の不便がついて離れない生活のようでした。
でも島民はその地で長い歴史を紡いでいました。
当時、都会を除けばほとんどがそのような暮らしではなかったでしょうか?
参考資料
喜界島・鬼の海域 福 寛美より
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