先月の26日、当社の塗装ブース見学のため会津若松から2名ほど来社、壁に貼ってあった”松平容保”の写真を目にして、関心が高まっていたようです。その時外出中でしたので15、6分で戻ると設備メーカーの社長に告げ事務所に向かうとすでに待機中でした。そこそこ挨拶を交わし、早速見学者から例の写真の掲載理由を聞かれました。
その時、説明のために次の内容の話しをしたのです。
テレビ”八重の桜”でいよいよ降伏を決断する場面、容保、死を以てその責めを果たすと臣下に告げた時、八重が「殿は死んではなんね~、朝敵の汚名をそそぐにも生きてくんなんしょ、会津は朝敵でなく朝廷よりお言葉を頂いておりやす。・・・」というような台詞で諫言します。並みいる臣下の中で女の八重が諫言した場面に感動したのです。いい場面でした。容保扮する役者もその諫言の真意をくみ取り号泣します。
良いですね!!。
何故そんなに感動したと言うと、私自身が長州・薩摩が戊辰戦争の際、朝敵と汚名を着せるために”錦の御旗”を政治的に利用して会津を貶めていたことを知っていたからです。会津は、悔しい思いを持っていたのではと想像していたので案の定とその場面に感動したのです。
会津藩、そして末裔の悔しさを代弁させたのではないかと。
松平容保、京都守護職を受け京の治安を守った功績により孝明天皇より感謝の※お言葉を賜ったのです。
※容保は文久3年(1863)孝明天皇からご宸翰(ごしんかん:天皇直筆の手紙)と御製(ぎょせい:天皇の和歌)を下賜された。 その中でもこのご宸翰と御製はよく知られている。
しかし、時流は会津に味方せず官軍に降伏、悔しかったことでしょう。
「会津藩VS薩摩藩」(著者星亮一)のはしがきに拠れば「長州とは仲良くするが、仲直りはしない」と会津若松市や会津商工会議所の幹部は言い切るとありました。
気持ちわかるね~。
亡くなったおふくろの従弟、確か和歌山県の田辺の助役だったかな!?記憶では合気道家引土道雄氏とも友人と言っていた、30年前ほど家に遊びに来た時宴席で「何が薩摩じゃ~」と息巻いていました。砂糖を手に入れるため奄美に圧政をしたことを恨んでいましたから。
晩年 八重が母校に何度となく足を運び鶴ヶ城の戦いを講演し、鉄砲の構え方を披露したり、城内ので婦人達の勇敢な奮戦ぶりと、会津魂と誇りの大切さを語っていたようです。昭和初期、80半ばの頃その肉声を聞いたというその卒業生95歳の女性が語っていました。
度胸が座っていた女性に間違いないようです。高齢にもかかわらず登壇し2時間立ちっぱなしで講演したとか、やはり修羅場を経験した者はすごい。
女の武者振りで子供の頃から聞かされていたのは巴御前、どの時代にも女傑はいるものなんですね。
そんな使命感あふれる生きざまを伝えるために朝のミーティングで使った松平容保の写真でした。
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