「華法に流れる」!

表題の言葉、武道関連の本から知った言葉、40数年前から25、6年ほど合気道を教えている時期があり、その頃指導するに当たりどのような心がけをしたらいいかと武道関連の専門書を読み漁った一冊の中にあったと記憶しています。
手元には様々の武術関連の本がありますが、有名なところでは「香取神道流」「居合術精義」「技法日本傳柔術」「合気道 剣・杖・体術の理合」などなど、家の書棚にも多くあります。
小説では津本陽氏の本、他に新選組関連の本、新選組には大正年間迄生きた永倉新八、他7人がいて記述が残り、当時の斬り合いの様子が見て取れる記述をよく読みました。それに「幕末異人殺傷録」という本からは刀の切れ味を知る記述があり参考になりました。

「合気道 剣・杖・体術の理合1巻~5巻」他に斎藤守弘9段がシリーズ化して残した6冊ほどあります。

先人たちが実戦を通して技を会得した過程を記しているのが「日本剣豪・名勝負100 著者森川哲郎 発刊昭和51年12月20日」この本、室町~明治幕末までの剣豪を取り上げ時代の変遷から剣豪のタイプを説明していました。
戦国時代の剣豪は実戦から技を造り、時代の変遷とともにどのように伝えられていたか理解できる本になっています。
平和になった時代になると道場剣法が主流でその様子が書かれていました。
思い出すのは、幕末の動乱期に有名になった剣法、新選組の天然理心流、薩摩の薬丸示現流ですが実戦剣法としてその威力を発揮したのは、
正しく技が稽古で伝えられていたのでしょう!?

斎藤師範は植芝盛平翁に20数年身近にお仕えし、盛平翁が合気道聖地と呼ばれる岩間で合気道集大成として残した「技」を伝承した師範と言われています。植芝盛平翁には高名な直弟子が多くおられますがその一人です。
合気道を指導をするため、斎藤先生がおられる岩間の「合気修練道場(現在は合気会茨城支部道場と改名されている)」に埼玉から通うようになったのは、昭和52頃から63年の頃まで、平成に入ると指導のため乞われて小平市にある体育館に来れられるようになり、講習会を開き亡くなるまでの期間、受講し稽古させて頂きました。
他に、剣術、居合の技術書があるのは10年ほど、剣術の理解のためと居合道を稽古していたためです。

その時の経験をもとに、現在に目にする合気道の印象と比較した感想を述べたいと思います。
「華法に流れる」、記憶では、或る剣術流派の話から出てきた言葉でした。
型稽古で、昔、戦いの実戦の場を通して技が造られ伝承された技が時代とともに変質し、華麗な動きに変質し実用から乖離してしまったことを指していると認識しました。

インターネットで「華法に流れる」で検索すると、次の説明がありました。
「…内容はすぐれたものが多く,現代剣道の考え方にも大きな影響を与えている。 一方,平和な時代の到来とともに,実戦的で殺伐な戦国剣法はかげをひそめ,〈華法剣法〉と呼ばれるように,形式に流れて華美となり,遊芸化の傾向をみるようになった。また各流とも相互の交流を試みることなく,他流試合を禁止して閉鎖的,排他的となった。」ネット記事より引用。
剣道の書籍より上記の内容を引用しているようです。私が読んだ本で認識した内容と同じ意味の様です。

私が合気道と出会ったのは日大生産工学部に有った合気道部に入ったことからでした。
昭和40年です。
当時の師範は有川定輝七段、月一回金曜日に大学に指導に来られていました。
当然、開祖植芝盛平の直弟子です、技の荒っぽさに噂があった師範、技は指導する際には手心は加え得ていたのでしょうが当身などを使っていました。

指導方法も細かな説明はなく、見て覚える昔ながらの稽古方法、そんな指導を受けていた先輩は、構えに入る時、隙、油断が見えると腹に当身を入れて緊張させる指導を行っていました。
何故かといえば合気道は競技化せず、昔ながらの型稽古方法を踏襲していましたので、相手と技をかけ合い繰り返し身に付けるやり方です。
ついつい、忘れがちな傾向になるからでしょう。
この辺りが型稽古する上で正確な構え、技を身に付けるために重要なこと認識しました。
特に受け身技の指導は厳しく、どんな体勢からも受け身が取れるようにと数人の先輩の受けを連続で取り、回し稽古(数人の先輩の受けを連続で取らされる)で鍛錬されました。
それに加え、練筋鍛錬と称して技の稽古前はスクワット、腕立て伏せ(合気道関節技が多いので手の甲を畳に付けるやり方でした。)、
腹筋と合わせて500回から1000回程度していたと思います。
基礎訓練では合気道独特の膝行があり、膝の皮がむけ血が出て、痛いのを我慢するのが辛かった思い出があります。
それもやり続けると慣れて剥けなくなるのですから人間の体はよくできています。
当時日大は各学部との連合で編成されており、合宿では150人ほどが参加していましたが、先輩の指導のおかげで、日々の稽古より楽だったと記憶しています。
そのような稽古で2年生まで鍛錬され、その方法は後輩にも引き継がれました。

 

それから大学で合気道と出会い50年以上たった現在、諸般の事情により稽古を止めていたのですが、10数年ぶりに再開するようになったのが今年から、現況を知るためにと「YouTube」などで合気道で検索すると様々合気会所属の団体が稽古風景を紹介する映像が沢山アップされていることに驚き、よく見るようになったのです。

そこで感じたことが「華法に流れる」ということでした。
「〈華法剣法〉と呼ばれるように,形式に流れて華美となり,遊芸化の傾向をみるようになった。また各流とも相互の交流を試みることなく,他流試合を禁止して閉鎖的,排他的となった。」ネット記事より。
岩間で斉藤師範から教えて頂いた「技」とは私の目からは異質(間違いなど)なものと見えてくるのです。
まず稽古方法が段階的でないこと、「固・柔・流(気)」と技を身に付ける過程が曖昧になっているようです。

※個体技法(固い稽古)と呼び、例えば基本技片手取り一教の場合、相手が力強く制しようと手首をつかんだ状態から無理なく動ける体勢(術理に関わる手、腰、脚捌きの動作)を造り相手を投げる術理を覚える過程。

斉藤先生は「※固」の段階でしっかりと、崩し、攻めを和らげる当身技、反撃を食わない体勢、立ち位置、一気に技を仕掛ける無駄のない動き、構え(半身体勢)などを開祖から伝えられた合理的を説明を加えて指導し、いい加減な動きをすると「ダメ」とよく叱責していました。
私が稽古に行くようになった昭和50年頃、外人も多く指導を受けていましたが真摯に指導を受けていました。
「固」の段階で確りと術理を覚え、次の段階へと進んでいくのです。
YouTubeで、技を間違えて伝えている団体の稽古風景を見ました。
その一例が、四方投げ掴んだ手首の握り方、投げる態勢に入った時、掴んだ手首を振りかぶる際(左手が右手の上にあった)この時、左肘が動きの邪魔をしているのに気づかず、スムーズな動きをするためにと掴んでいる左手を緩めていた。
これなども、相手が技をかわすことを前提にしていない証、斎藤先生だったらダメだしです。
このように開祖が伝えた技を間違えている事残念でなりません。
普及すればするほど、開祖の技が変質していく一例です。

 

合気道を習う人たちの動機が当時と違っていることも影響しているのでしょう。
その点、海外の人達、実用性を念頭に入れ「護身術」として稽古に励んでいるようにも思えます。
YouTubeで見ると呼称をリアル合気道と呼んで一線を画しています。

翻って、今は、時代の流れを反映し、お年寄り、ご婦人、女性、子供が健康目的の、今風に言えばエクササイズ的(※戦後は普及目的で健康に良いと宣伝はしていたが)な意味合いでの入門動機になっているようです!?。
戦前、戦後ある時期までは皆、護身目的で強くなること前提に入門していた時代(私が稽古していた時期)は、厳しい投げ技、厳しい関節極めなどで修練し鍛えていました。昔の稽古方法では通用しなくなっているようです。

合気道の団体、様々にありますが、各団体の指導理念により、昔ながらの稽古方法を踏襲している団体もあると思いますが、
時代の変化に対応する稽古方法を考えながらやっている事と想像します。

尚武の気運が薄まり平和な世の中(国際情勢からみればそうとも限らないが!?)が続く現在、見た目に華麗にみえるような方向に流れてしまうのでしょう?
それが遊芸化と言う現象なのでしょう。
参考に「斎藤守弘師範」「有川定輝師範」の演武を紹介します。
YouTubeのお蔭で、当時、指導を受けた師範を観ることが出来る事はうれしい限りです。

 

 

 

 

 

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