私の蔵書「中里介山と武術上・下」

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この本を入手した頃は、昭和50年代半ばと思います。

当時、友人に頼まれ、練馬大泉学園で合気道を教えていた頃です。合気道には、体術、剣術、杖術があり、総合的な視点で指導しなければいけないと意気込んでいた自分が居て、武術に関する書籍に関心を示し、必要なものと感じた本は購入していました。

その中の一冊です。

どこの本屋で見つけたのか、今と違いネットもない昭和50年代、当時は努めて、出掛けた時など良く本屋に入り武術関連のコーナーなどを探し見つけた本ではないかと思います。

装丁も素晴らしく力作と思いました。

何でこの本を書架から引っ張り出し、再び読む切っ掛けになったのが、合気道の弟子が私の会社に居て、最近、始業前のわずかな時間に、体慣らし程度に合気剣術の型稽古を始めた事でした。

合気剣術は、開祖植芝盛平が、鹿島新当流を学びそれを基に、自身の「理合」を型に組み込み残したと聞き及んでいます。

合気剣術基本型は5本、どんな考えで残したのか想像を働かしながら稽古していた時、この本に甲源一刀流の型の説明写真がある事を思いだし、その理合を調べようという気が湧いてきたのです。

当然ながら、私の業の域は大したことはないのですが、「理合」はある程度できる理解出来るとの思いからでした。

甲源一刀流、今では知る人も少ないのでしょうが、中里介山が書いた「大菩薩峠」主人公、机龍之介が使う剣術で、そして「音無しの構え」が有名なのです。

この本の著者、柞木田龍善(たらきだりゅうぜん)氏が、この小説で描かれた剣術の立ち回りの理合を解説するために著した本なのです。

当然ながら著者自身も良く剣術をこなす人物、だからこそこのような素晴らしい本を残したのでしょう。

大正3生まれの方です。

明治以前の史実を調べるに、まだまだ生き証人が大勢存命していた頃です。

その一例として、実際の斬り合いの口伝を記しています。

「・・・私たちは、翁から、浪人者同志が斬り合った場面を見た貴重な話を聞いた。二人の浪人は、十メートル離れた遠間から走り寄って来て、チャリン、チャリンと刀を合わせてはまた十メートル離れ、また近寄って闘った、という。斬り合いの実際は、ふつうこんなふうだったようである。・・・」。

この記述の読んで思い出したのが、「七人の侍」で宮口精二扮する久蔵が、浪人の戦いを挑まれ斬り合う場面があったが、まさにこのような間を取っていた。

この映画の殺陣師、天真正伝香取神道流師範杉野嘉男氏がそのような斬り合いの殺陣指導をしていたが、やはりそうなのかな?

実際の斬り合い、私のブログ「さらばホロンバイル」で手記を残した横田正一氏が夜襲で斬りこみをする時、夢中になって刀を振り回し恐怖で泣き叫ぶソ連兵の声を聴いたと記していた。

斬り合いの状況によって変わってくるのかもしれません。

この本で、写真で紹介している形は7本あり、一番目は「引き身本覚一本目」と呼称し紹介されていました。

此の刀法の動きが、合気剣術組太刀1と似ている所があるのです。

「打ち太刀の木太刀を打ち落としてそのまま一拍子で入る。」の理合が同じなのですが、写真で見る限りでは腰の使いが違うだけなのです。

この型を修練され身体の使いに熟知されている方からすれば異論があるともいますが、私には、「打ち落として一拍子で入る。」の記述に組太刀1と同一性を観たのです。

興味深い点でした。

更に他の記述に「古事記」から、合気道が「武産合気」と呼ぶ謂われと同じように剣術も同様な意味合いの説明がありました。

「・・・国常立尊を初めとする神代七大終わりに伊邪那岐命・伊邪那美命の二柱の神が成りませり、ここに天つ神、もろもろの命もちて、伊邪那岐命・伊邪那美命の二柱の神に、このただよえる国を修理固性(つくりかためな)せよ、と詔りごちて、天の沼矛(ぬぼこ)を賜いて言(こと)よさしたまいき。かれ二柱の神、天の浮橋に立たして、その沼矛を指し下ろしてかきたまえば、塩こうろこうろかきなして引き上げたまうとき、、その矛の先よりしたたり落つる塩つもりて嶋となりき。これ於能碁呂嶋(おのころじま)となり。と、ここに矛なる武器を用い、その武の働きによって最初の国土が創造され、ここに天降りて国の柱を建て、それにより国生みをなし、万物を生みなした、と、詩してある。このように、教えられたあと、ここからいよいよ「武」に入って、

ここに、日本独特の武による生みが我等祖先の考え方として示されているわけで、日本の武は文の後に来たのでなく、武は一切に先立って、国土全体は武によって創造されたと説いている。だから、武とは産む業である、産(むすび)ということである。・・・<中略>・・・だが日本の武の起りは、これよりもまだ先、伊邪那岐命が自分の子、迦具土神(かぐつちのかみ)を斬った時からはじまった矛から生まれた国である。といっても、結びの神であるから、殺す、倒すことが日本の武でなくて、生太刀(いくたち)であるから新たに生み出す、つまり、剣術の業はこの生み出す業である。・・・」、

ここまでで分かってきたこと。

合気道でいう「武産合気」と開祖植芝盛平が言うのは「産(むすび)」であり、「武」が生産(生み)の本義なのだと。

「合気神髄」には・・・武産合気をもって宇宙の修理固成に進みむとあり、日本の道を産み現すことを武産(たけむす)と言います。・・・

抽象的ではありますが、「産(むすび)」として「武」の本義があると言うことなのでしょう。

40数年前何度も聴いた開祖の講話、突き詰めれば「産み」の話なのだと思います。

改めて武道の勉強から分かった事は「記紀」が日本文化の基底となっていると言うこと。

別の蔵書、香取神道流1にも、それに同じ様な意義が冒頭、香取神宮御由緒に説明がありました。

「・・・千葉県佐原市香取にある香取神宮は、経津主大神(ふつぬしのおおかみ)を御祭神として奉祀する名大社である。経津主大神のまたの名を伊波比主命と称される。御創祀は神武18年と記録されているから2600年前にさかのぼる。経津主大神は皇祖天照大御神の御命令をうけ、鹿島の大神と共に出雲の国譲りを大国主命と御交渉され、円満裡にその国土を皇孫に捧げ奉らしめた。更に国内を巡行して荒振る神々を御平定なされ、我が国体の基を御築きになり、また東国開拓の大業を成し遂げられたのである。このように平和国家の建設と民生の安定福祉にその神威を顕現なされたので、その御功業を称え「国家鎮護の神」、「産業開発の神」或は「武徳の祖神」として其の御神徳を仰がれ、お祀りされるようになったのが、香取神宮の始まりである。・・・」とあり、

この「中里介山と武術」を著した柞木田龍善(たらきだりゅうぜん)氏の「武」をキーワードにして理解しようと、他書2冊を参照して観えて来たことが「もともと「武」は平和の基として2600年前から認識されていた」と言うこと。

今思うと、今の武道教育にこの一点が忘れ去られているような気がするな~

開祖がこのような言葉を残したのも基は「記紀」なのでしょうね!

<<吉祥丸「父は合気道の心は皇祖皇宗の御遺訓である、と良く言って居りました。合気道は日本の自然の中で培われた純粋に日本的なものだ。日本民族は麗しい山河を愛で、御皇室をその中心として尊宗して来た。従って合気道は御皇室と共に在り、御皇室中心で無ければ成らない、と」『合気道探究』>>

 

 

 

 

 

 

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