11月4日、産経新聞一面に「尊厳死予告の米女性死亡」と見出しが有りました。以前ネットニュースでも取り上げられて知っていましたが、この記事を読んで自らの命を絶つ選択をしたと知りました。
記事内容は、賛否の意見を取り上げていました。
賛成派は、「今でも彼女を支持している。みんなも尊厳をもって死ねるようになることを願う」、「尊厳死を合法化する法律が他州でもできる様に自分の闘病の苦しみを公表した。勇敢だった。」。
反対派は、「たとえ健康でなくても、自殺を許してはいけない」、「臆病者の逃げ方だ。なぜ人生を捨てるのか」。
私の身近な事として、知り合いのお兄さんが肺がんと診断され、治療を受けずそれを受け入れて人生を全うした方を知っています。
ガン治療も進んでいますがケースバイケース、恐らく手遅れな状態であったのでしょう。
そんな兄を知り合いは弟として尊敬していると語っていました。
片や、ガン治療受けながら、治療を止めて自宅で静養する形をとった人がガンから生還し命を取り戻したという話も聞いたことがあります。
自分の命とどう向き合うかは、本人の意志が尊重されるべきなのでしょう。
賛否両論になるのは、それぞれが命をどう見るかの考え方によるわけで、尊厳死を選んだメイナードさんのように自ら命を絶つ事を一概に責められるべきものとを思えないのですが!?
「死生観」を辞書で調べると「生きることと死ぬことについて、判断や行為の基盤となる考え方。生と死に対する見方。」とありました。
生死の問題は「本人に帰属するもの」なのでしょうか。
宗教上ではキリスト教は自殺を忌避します。
ですから、尊厳死を認めているのはオレゴン州だけなのでしょう。
戦後生まれの私にとって、「神風特攻隊」は命を捨てる覚悟で飛ぶわけですから子供心に死を恐れない勇気ある人と映りました。
母が歌っていた「爆弾三勇士」なども同じように勇気ある兵隊さんと思ったものです。
子供心に死と言うものはどんなものかとそれなりに考えを持っていたのでしょう。
日常的に生活している中、楽しいこと、嬉しいことなど経験できなくなるのが「死」と考えていたと思います。
それはとっても辛いことと認識していたのでしょう。
だからこそ、自ら命を賭す行為は勇気あると思えるのです。
戦前までは、日本人の平均寿命も50歳以下、死亡率の高い病気は「結核」でした。
その上、大東亜戦争で若くして戦争で亡くなった人達が多く、それがトラウマになって戦後の生きる価値は「長生き」が目標となって今日に至っていますが、平均寿命は延びたけど床に臥す時間が多く、痴呆症、老々介護など新たな問題が浮かびあがっています。
武士階級の人達は主君のために命を懸ける覚悟で仕えることが当たりまえ、従い生きる、死ぬは課せられた使命に準ずる形で決まり、いつも日常的にその覚悟を律することが要求される時代でした。
やはり個々の確立した「死生観」を持っていなければなりません。
戦争中は、命を捧げる覚悟を持つことが「死生観」でした。
そして戦後は「長生き」が大切となりました。
戦国時代には幼い子供までがその覚悟を持つことが当たりまえでした。
日本武士道史の中に、「足利義久兄弟の自決と処刑」の物語がありました。
幼い兄弟が捕まり、処刑されることとなるのですが、従容としてそれを受け入れて死にます。
そこには、仏教観が大きく影響してたと綴られていました。
「生きる死ぬ」、宗教的、また人生観としての哲学など様々な価値観が入り乱れ、個々の人々が判断してきたものなのでしょう。
様々な問題を抱えながら「生きる事」を見直す時代がやって来たのではないでしょうか!?。
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