あの12月8日 日米開戦

その日、朝のテレビ アメリカABCニュースを見ていると、12月8日、日米が戦争になった日と報じ、ミッドウエイ―海戦の生き残り92歳になった元兵隊さんを紹介していました。
その方、ほとんどの戦友が亡くなってしまいさびしいと語り、戦争に参加したことを誇りに思いますとも話していました。
街頭インタビューでは若い女性に今日はどんな日か知っていますかと質問し、返答はアメリカと戦争をしたことは知っていますが何の日か知りませんと語っていました。
インタビューアーは戦争の記憶が薄れていると印象を報じる。

12月8日は日本にとって忘れられない日と思いますが、語り継ぐことしなければ薄らいでいくことは当然です。
私、敗戦から約1年後に生まれています。
物心ついた頃から戦争があったことは知っていたと思います。
具体的なことは映画から知りました。
その初めが昭和28年から始まったテレビ放送の番組で観た「ひめゆりの塔」です。
主演 先生役の津島恵子 女学生役の香川京子。
沖縄の女学生が戦争の犠牲となって命を落としていく物語でした。
歳から言って小学1年生のころと思いますが、近所の不動産屋で見せてもらったと記憶にあります。
その時どんな印象を持ったかは定かではないですが悲しい物語だとは感じたと思います。
他に小さいころ観た戦争映画では、鶴田浩二主演の「雲ながるる果てに」と言う映画で神風特攻隊を描いていました。
死を賭して敵艦に突っ込むその勇気には子供心に凄いなーとの印象は持ちました。
あと、印象にあるのがテレビドラマ「私は貝になりたい」フランキー堺が主演でした。
床屋のおやじ役で、戦争中上官の命令でアメリカ兵を処刑した事でB級裁判にかけられ処刑されるドラマでした。
他に「原爆の子」という映画、「二度~と、許すまじ原爆を~」の歌がありました。
幼少の頃は、朝鮮戦争がありました。
その関係でしょうか、近所に黒人の合いの子(あの頃外人と結婚してできた子供をそう呼んでいました)いたこと。
黒人のアメリカ兵を見て、その黒さに驚き手の甲は黒いのですが掌が黄色だったことが鮮明に記憶に残っています。

その後、成人するまでに映画や記録映画、大人たちから断片的に戦争について話を聞くなどして知識を持つようになっていました。
アメリカはレーダーがあったので勝った。
暗号も解読されて作戦行動が知られ、かつレーダーで動きを読まれてしまっては戦う前に負けています。
工業力が違う。兵器が優れている。など・・・
他に、日本は海軍と陸軍の仲が良くなかったと聞いた記憶があります。

子供心に負けた悔しさがあったのか大東亜戦争(太平洋戦争)の関心は持続し、本などで調べるようになり、戦艦武蔵、戦艦大和、ゼロ戦、紫電改の開発に関する本、大空のサムライ・坂井三郎の空戦記録など他にもいろいろと読みました。

真珠湾攻撃で戦争の火蓋が切られたのですが、いろいろと本を読んでいくうちに、当時日米交渉が行われ、アメリカの最終的なハルノート通告からその要求は飲めないと判断してとった行動のようです。
当時日本は資源をアメリカから輸入をしていたこともあり、それが経済封鎖によって石油などの枯渇も懸念されていたそうです。
ハル国務長官、来栖、野村大使で交渉は進められていました。
当時の政治情勢から決断したことでしょう。
日本としては通告の内容から推して明治以来中国大陸に今まで築いてきたものを失うことは良しとしなかったのでしょう。
アメリカからの圧力がその一因ともなったようです。
決断した時の東條英樹の心境や如何に。
このような政治情勢から、日本が一方的に開戦に及んだのではないと知りました。

この真珠湾攻撃は騙し討ちと言われてしまいましたが、そうなってしまったのはアメリカ大使館員の不手際だったとも知りました。
本から引用してその経緯を説明します。
「…その理由は、これまた、アキレて物もが言えないような、ささいなものだった。すなわち、書記室では、6日の夜、中南米に転任がきまった館員の送別会を開いていたため、7日の午前になってはじめて電文を(13通)の浄書作業(タイプ打ち)を開始した。そのために午後1時という手交予定時間に間に合わなかったというお粗末さだった。・・・」
これは戦後になってわかった事だそうです。
当時の大使館員はその時、ウソで固めて言い訳をしていたのです。
これを知った時、「なんて言うやつらだ」と憤慨を感じました。
真珠湾攻撃が騙し討ちとなった事を、その攻撃に加わった飛行隊長が本でその無念さ(大使館員の不手際が原因だと書きしるし)を遺言として記述していました。
当時の責任者、
「このI参事官、O主席書記官の許すべからざる怠慢は、ある意味では戦争犯罪人よりも、はるかに悪質な犯罪人として、本来ならば国民によって断罪されるべきであろう」と著者は記述していました。
何らその方たち責任を取っていないそうです。
しかし、腹が立つことです。

海軍、陸軍の不仲も本から確認することができました。
この問題は作戦だけでなくいろいろと軋轢を起こすのです。
一例を上げると
「・・・松根油(しょうこんゆ)の採取ということが非常にやかましく言われ、国民はこれさえあれば飛行機が飛べるというので、寝食忘れて一生懸命松の根を掘ったが、これにもやはり陸軍地区と海軍地区があって陸軍地区で掘った所は陸軍だけが使う、海軍地区になっている所の松の根は挙げて海軍が使う協定になっておったのに、(中略)・・・」
要は、陸軍と海軍が地区外で多くとれた松根油の取り合いをし、衆人環視の前で喧嘩になったそうです。
連合国軍と戦わなければならないのに、日本軍同士で争い事をしているなんて俄かに信じ難い事です。
インドの判事でパール博士が日本を無罪と主張していたことも知りました。
終戦となり、東京裁判がアメリカ主導で行われますが、公平な裁判とは言えないのではと今は思っています。
勝者の論理で行われた裁判であったことは間違いないでしょう。

数年前友人と論じ合った事がありましたが、敗戦の原因の検証を十二分に行わなかった事はまずかったと言う結論になりました。
一億総懺悔ということで終わってしまったのです。
今でも外交面でまずさはあり反省がないままです。
敗戦の教訓が生かされていない事は残念です。

参考資料

 

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