気になる事

いつ頃からか分からないが、気になってつい見てしまいます。
「ペンの持ち方」「箸の持ち方」。
スーパー、ショッピングモール、コンビニ、家電販店などに買い物に行く際、側で、店員さんが書き物をする時、正しくペンを持っているかとつい見てしまいます。
何時だったか、店員さんにそんな持ち方で書きづらくありませんかと聞いたほどです。ペンの持ち方は、親指、人指し指で挟むように持つのです。
ペン、鉛筆、毛筆などの持ち方は親指、人指し指、中指で支え軽く持つ心持でと教わったような気がします。
親指、人指し指で挟むように持つと手首に力が入り運筆に滑らかさが出ないように思います。
長時間書き物をする時、その持ち方だと疲れるのでは。
正しいペンの持ち方というものがあるのに学校で教えなくなったのでしょうか。習字を習っていれば3本の指を正しく筆に添えて書く練習をするわけですから、鉛筆などもこう持ちなさいと学校で教導していれば正しい持ち方が身につくと思うのですが。
先生が、うるさく注意しなくなっているのでしょう。
見た目にも悪く、不器用に見えます。そのような持ち方だと、まず筆はうまく使えないでしょう。私から見ると欧米の人達のペンの持ち方に似ている感じがします。
正しいペン、筆の持ち方には機能美が感じられます。
あるテレビで、大食いの家族を紹介する番組を見ていました。確か、柔道一家が紹介され、食事の様子を放映していました。運動量も多く柔道を稽古した子供達は、たくさん食べていました。
その子供達の箸の持ち方に目が行ったのです。箸を5本の指で鷲掴みに持って食べていたのです。低学年の子供ならいざ知らず、そこそこ年の行った子供です。それなりに箸を正しく持つような姿勢があれば、使い方が上手じゃないと思うのですが、正しく箸を使おうという気配が見られませんでした。
私の親戚の子供にもそういう持ち方をしていたので注意した記憶があります。
柔道は古流柔術から発展した武道です。礼に始まり、礼に終わると指導者はよく言いますが、作法にも気を配って指導してもらいたいものです。
ある時、川越運動公園内にある武道館でも、剣道を稽古している子供たちと出会ったことがありました。稽古前なのでしょうか、先生を囲んで懇談していましたが、道具(竹刀、バッグ)など散乱したままにしておいてありました。
武士の魂といわれる剣の代用品として扱わなければならない竹刀にしても置き方に配慮が感じられませんでした。
食事でも姿勢をよくして食べることも稽古です。竹刀の置き方(せめて人に跨れないように置く配慮、)一つにも、武道のスポーツ化の弊害をみたような気がします。
※ スポーツ 遊戯、競争、肉体鍛錬の要素を含む身体運動の総称 広辞苑より。英和辞典で調べると、意味が娯楽、楽しみ、気晴らしと言う記述もありました。
箸の持ち方一つにも日本の食文化があると思うのです。作法としてある箸の持ち方を正しく伝えることも大切です。
ペンの持ち方で前述したように、そのような持ち方には美を感じられません。
それぞれの持ち方、ある意味で技です。その目的に適う持ち方として確立されたものです。
何かそういうものが今の日本ではないがしろにされているような気がしてなりません。
私は学生時代、合気道部に所属し、武道の稽古は修行と言う意味合いで取り組んでいました。前述したスポーツの意味、気晴らし、娯楽、とでは目的が違って行きます。
礼儀作法というものの何たるかは合気道の師範から教わりました。隙の無い立ち振る舞いが基になっていると。若い時でしたから知識として判った程度でしたが、何時の頃から稽古と思い、なるべく日常生活の中で作法には注意を払うようになりました。
人前を通らない、窓の無い戸を開ける時、角を曲がる時人の気配を探りながら、歩く時は姿勢よく歩くなどなど。
開祖植芝盛平は『歩く姿に武がある』と仰いました。それを再認識したのが
開祖植芝盛平がある神社の前を歩く姿の映像で見た時です。70才中頃の映像と思うのですが、和服でしたが肩の線が撫で肩で力み無く、歩いているのです。
やはり、鍛えた方が違うと感じたのです。
私なりにその言葉の意味を理解して、歩く時姿勢良く歩き咄嗟の時にも身をかわせるようにと。
歩く時は次の事を注意して歩きます。
肩の力を抜き、胸を広げ、上体を下半身にしっかりと置き、膝はこわばらず、ゆとりを持たせ、重心が親指付け根に来るように。
作法について前述した認識を持つようになっていた頃、10年前に合気道の師範をされている方が『武道の礼儀作法』と言う本を出版されていたので改めて勉強のためと思い購入しました。
本の構成は、次の内容でした。
一部 武道場作法
二部 「礼」とは何か
三部 一般儀礼
となっています。
作法の根底には、相手に対して失礼の無い思いやり、隙の無い所作にあると理解しました。
筆者は今の日本人が平気で物、人を跨ぐ行為を戒めている記述もあり、そうだと実感する内容、その通りと感じることが多々ありました。
二部の中に書かれた「「礼」を取り巻く環境についての節で行動基準を見失った戦後日本」の中に、私自身と同じ様な見解を記述していたので参考のために引用しました。
「日本人の品位は、明治、大正、昭和、平成と確実に低下していることは多くの人が指摘している。筆者もその通りと思う。現代の日本人の食事作法は世界一汚いと言う意見ある。知人の会社で最近、三人のアメリカ人を採用したが彼らはこんなことをいったと言う。『日本人の礼儀作法をというものを知って、その合理性や美しさに感動して日本に行きたいと思った。周囲のアメリカ人は日本人と比べて、なんとガサツだろうと思った。だが、来てみたら、日本人はアメリカ人以上にガサツだ』
この記述に類似している話が『剣と禅』に書かれていました。
類似とは精神を学ぶという点ですが、記憶している内容は確かこうだったと思います。
「第1回剣道世界選手権に参加したフランス代表に、当時の連盟会長木村氏が質問するのです。何故剣道を稽古されるのですかと、返答はこうです。私たちはラグビー、サッカーなどで鍛えましたが、剣道で古武士の風格を身に付けたいために稽古するのですと」
これなども前の話同様外人が日本文化の本質を理解し、当の日本人が分かってないことを示す事例です。スポーツとして剣道をすることは結構なことですが、勝負にこだわるあまり、何を身に付けなければならないか忘れられる傾向にあることを指摘したかったのでしょう。
それにしても、今の若い人「古武士の風格」と言ってもその意味を理解できるでしょうか?
「武士の情け」同様に理解出来ない人が多いと思います。
合気道師範が書かれた本で一番実感したのがはしがきの一節です。
これなどは、武道の稽古の本質を忘れている事例ですので引用します。
要は、現状日本剣道が精神性、礼儀作法に重きをなしていないことを言いたかったのでしょう。
「日本から派遣された剣道の指導者が、竹刀に馴れさせると言う理由で子供たちに竹刀を飛び越えさせながら準備運動をしている姿を見て、『これは私が期待したサムライケンドーではない』と、子供をつれて帰った母親の例が最近報告されている。彼女達(アメリカ人)は、日本のサムライはシナイをまたがない、また、またいだら決闘となると信じている。」
剣道を習わしている今の日本の親達にこの話を聞かせて感想を聞きたいものです。
柔道では今でも思い出すことがあります。
東京オリンピック重量級決勝戦ヘーシンク、神永の試合で、まだ精神性を垣間見られる所作がありました。道着を直す時は正座をして行っていました。ヘーシンクが抑え込みで勝利した時、仲間が場に立ち入ろうとした時、ヘーシンクは仲間を制止して、試合場に入れませんでした。まだその頃は神聖な場所という認識があったのでしょう。
ペン、筆、箸の持ち方一つにも日本伝統文化があるのだと感じるようになったのは、年のせいなのかも知れませんが若い時気づかないことも年を経て理解できるようになるのかなと思うこの頃です。

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