箒の手造り作業を見て

ある日曜日、近所の大手スーパー店へ買い物に出かけ、ブラブラと歩いていると、エレベータの脇に箒が陳列されていました。その側で箒造りの実演を行っているので、珍しさもあり足を止め見物することにしました。
写真1
陳列の様子
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竹みたいな材料なので、職人さんに質問した所、箒草でトウモロコシの仲間の植物と説明を受けました。見始めた時は、箒草の先端にある細長い枝の房の部分を茎に当たる5,6本の筒を束ねてエナメル線を使って編んでいました。
編み方はスソ編みと説明を受けました。
それを10本ほど編み終わると、1m2,30cmの竹の柄の先に十字に細い竹が付けられている物をもって、先程、編んでいた箒草の房を取り付ける作業に入りました。十字に取り付けられた竹にその房を通して、束ね始めたのです。この時、何のための作業か知りました。この作業で掃く部分を作るのだと。
写真2
両手で持っているものが、竹の柄、房を串刺しに細い竹に通してある
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結構、長い時間をかけて箒一本が作られているので、質問したのです。
こんなに手間をかけるのでは、日本では採算が合わないでしょうと。
答えが返って、今では箒造りの技術を海外で教えて海外生産しているとの事。
東南アジアのインドネシア、マレーシア、タイなどで作られていると。
箒草は熱い所で、育つので材料も向こうで作られると言いました。
中国なども、竹が生育しやすい所なので、中国でも作られるようになったとも説明を受けました。
エナメル線で束ねる作業の時、エナメル線を巻いてある板に足をあて支えにし、束ねた部分を紐で巻き上体をそらして強く引きながら増し締めをしていたので、結構体力を使いますねと話すと、職人さんは「年もとって若い頃より作れなくなった」と話していました。
写真3
房を通し終わったところ
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見物している時間から、推察しても1日に7,8本作るのがやっとと思われます。
使う道具は、小刀、木槌、叩き台(木を裁断したもの)、千枚通しの芯が太いものがありました。
写真4
叩き台、写真左がエナメル線を巻いた板
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職人さんに現況を伺うと、「この地域では私だけ一軒だけになりました」と答えが返ってきました。
昔は、どれほどあったのですかと質問したら、「昭和30年代頃、100軒ほどあったとの事」。
今日、掃除機の普及も影響しているので、どんな所に売れるのと聞くと、学校で使われていると言いました。
陳列されていた箒は、インドネシア産と説明を受けました。
竹の籠なども、今は海外で作っていると話していました。
雑貨品など、手間のかかる製品は確かに、外国産のものばかりになっています。
それだけに限りませんが。
写真3で行っている作業が終わると、ニューム線(アルミニュームで出来た針金)を取り出ししっかりと柄に取り付けるため、それを巻きました。そしてニューム線を巻き終わると、止めのため穴を開けてニューム線の端を直角に曲げて、それを穴に差し込みました。
その時、小さな楔を同じ穴に入れて、木槌で打ち込み固定しました。その楔は、竹に十字に取り付けられていた竹の余った部分を利用していました。
材料を無駄にしないことに感心しました。
わたしが小さい頃、身近に手仕事をする店、工場、行商などがありました。靴屋さんは、修理、靴の誂えを主にしていたのではないでしょうか。町工場は製本印刷関連が多くあり、近所の家々で製本のための「折(へらを使って紙を折る)」の内職をしていました。また、紙を裁断する刃を研ぐ研ぎ屋、小さい時の記憶ですが、金型に粉(材料が何だったのか不明)を入れ、熱を加えてお椀を成型する町工場もあったと思います。他に桶屋さん、道端、軒先で、こうもり傘の修理、鍋釜の修理、包丁研ぎ、と町に手仕事を見る機会がたくさんありました。子供の頃それをみているのは結構面白かったです。煙管の掃除をする羅宇屋(らうや)も見かけました。リヤカーに道具をそろえた箱を乗せ、蒸気でピーと笛を鳴らしながら※それを引いて商売していました。当時は、煙管でタバコを吸う人がいたのでその商売が成り立ったのでしょう。今ではこのような手仕事はほとんど見かけなくなっています。昔は、街中にいろいろな店、工場が身近にありました。靴の修理屋さんは、形態を変え修理専門のチェーン店が出てきていますが。
※ (小型のボイラーから出る蒸気で羅宇(筒にあたる部分)を掃除し、その際に鳴る「ピー」という笛にも似た音が特徴的であった、と調べたらありました、この部分の記述は私の記憶違いかもしれませんが)
私と同世代の人達は、場所の違いこそあれ目にしている光景だと思います。
今、日本では、この箒の手造りする職人さんが少なくなっていますが、大量生産、新しい素材の現出、消費社会への変貌により、さまざまな、手仕事する職人さんも減ってきているのだと思います。台所を見ても、籠などはプラスチック製に変わっています。風呂場の桶はプラスチック製。
職人さんの働き場が時代の変遷とともに、少なくなってきていますが、状況は変化しても、産業社会に熟練した技能は、必要なことには変わりません。
前回のブログでも触れましたが、卓越した熟練工の養成は不可欠です。現状で産業界が必要とする技能、技術の見直しをして、将来的展望に立つ方針を樹立しないといけないと思います。
やはり、時代に流されてはいけない面があります。
以前ブログで引用した本に「失われた手仕事の思想」があります。
その中に、消費社会となった今日に物事などの吟味、工夫、分別など本質に迫る能力が失われている事に警鐘を鳴らしているのです。私も仕事の関わりでそんな事態を経験しているので、引用し読者にも一考していただければと思います。
第4章、手の記憶_経験を必要としない時代_の項にこう書かれていました。
「職人たちが作る丈夫で、長持ちし、使い勝手のいい品物を拒否し、工場から送り出される大量生産、大量消費の安価な品物を選んだ結果どうなったであろうか。
あれほどやかましく素材の出所を尋ね、手に取り吟味してきた人達が、素材を吟味しなくなった。知らぬ素材で作られた品物を受け入れてしまうようになったのである。物を大事に使うということもなくなった。手をかけ精魂を込めて職人が作ってくれたものを粗末に扱うことにためらいがあった。そして粗末に扱えば、せっかくの品々、道具が壊れてしまったり狂ってしまうのである。
修理をして道具を使うということがなくなった。・・・・・・・・・・・
・・・・・・中略・・・・・・壊れたら買い換える。古くなったら捨てる使い捨てが新しい常識になった。・・・・・・・・・中略・・・・・・世の中からそういう考えが消えてしまってから生まれてきた子供たちなのである。・・・・・・・中略・・・・・・・長い時間のものの見方ができないところに文化は生じない。国民に長い目でものを見、行く末の像を描く訓練がなくなると、そこから生まれた政治家や指導者もそうした資質は失っていく。この国は今その泥沼にはまりつつあるのではないだろうか。・・・・・・・・」
吟味、工夫、分別を思考力とすれば、安易さをよしとしたために生活の中でも、その能力を削がれてしまっているのではないでしょうか。
例をあげれば、ブランド基準で安易に購入する。テレビで紹介されれば、付和雷同してその品物に殺到する、お店も同様、など。
私の経験というのは、こういうことでした。
あるダイカスト製品ですが、外観検査で塗装を含め、その品質を決めていたのですが、それだと製法上、不良が多く出てしまうので、機能検査に変更して気密性で良否を行った方が無駄無く効率的、経済的なのです。取引先が納入している会社に提案したのですが、図面通りの内容でやって下さいと取り合わず、提案が通りませんでした。
その製品は、組み立てられて表に出ないものです。気密性さえしっかりしていれば目的に適うのですが。
こんな記述もありました。
「中には、学校の生活そのまま持ち込み、いい大人になっても『教わっていなかった』『いわれてなかった』『聞いていません』と答えて自己責任を逃れようとするものもいる」、こんな考えが逆に働き、「教わったから」、「いわれたから」、「聞いたから」と考えもせず行動する者たちが増えたのでしょう。思考停止状態そのままです。
「自分」というものがありません。
そんな気がしてなりません。
参考資料 「失われた手仕事の思想」 著者 塩野米松 出版社 草思社
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