敗戦から77年—日本の守りは?—

昭和20年8月15日、昭和天皇陛下が国民に玉音放送で戦争の負けを告げた日が終戦記念日と定められ今日に至り、今日も戦没者慰霊祭が天皇皇后両陛下(124代、125代、126代)をお迎えして行われています。
当時、戦後生まれの私は、幼さもあり「戦さ」でアメリカに負けて降参した日と理解していた程度だったと思います。そんな戦後生まれの坊や(私)が、大東亜戦争(アメリカ側:太平洋戦争)の様子を知ることになるのが映画がでした。
年代的には1950年代となりますか。

戦艦ミズーリ―号での降伏文書調印式が行われた事をニュース映画で見るし、東京大空襲、広島、長崎の原爆投下の映像をニュースで見る機会がありました。
小学校に入る頃になるとテレビ放送が始まり、テレビで映画「ひめゆりの塔」(主演津島恵子、香川京子)を観ました。
飯田橋駅ガードの傍に有った不動産屋さんと記憶している。
当時は家々でテレビを見せてくれた。(注:当時、近所でテレビを持つ家があった)
その他に、映画劇場で「雲ながるる果てに」(主演鶴田浩二)を見るなどして戦争に対する知識を持つに至りました。
あと、記憶にあるのは「二等兵物語」(主演伴淳三郎、花菱アチャコ)なども見た記憶があります。製作年代は1950年代、小学校時代に見ていました。映画館は神楽坂近辺にありました。
この映画で知った事と言えば、軍隊生活の辛さ、上官の暴力かな。
当時、千代田区飯田町に住んでいましたから近場に映画館があり、映画を見に行く機会が多々あったのでしょう。
それと当時、軍事将棋なるものが流行っていたので軍隊の階級などはそれで知りました。
戦争映画のほかに「ゴジラの逆襲」を観ています。
今思えば、家が文房具屋の商いをしていたので、商売の足手まといになることもあったから映画に行かしてくれたのかと想像しているこの頃です。
この頃は東映時代劇が全盛を極めていました。
小学校時代までは戦争の史実は映画から知識を得ていました。
家の近所でアメリカ兵を観たことがあり、黒人を見た時はその黒さに驚いたものです。
今思えば、朝鮮戦争の最中で休暇を取った兵隊さんではなかったかと?
また、アメリカ兵との間に生まれた黒人のあいの子の女の子もいました。当時は珍しい存在です。
家の事情で、板橋区蓮根に引っ越して中学生になった頃、映画鑑賞は続き、志村坂上にある志村オリンピア映画館に見に行くようなになり、そこで見たドキュメンタリー映画「13階段への道」を観て戦争の悲惨さを知ることに。
ヨーロッパの戦場でナチス・ドイツと連合軍の戦いとアウシュビッツ収容所の映像に衝撃を受けました。今でもはっきりと覚えているのがガス室の処刑、下水溝に一気に流れる水が小便とは俄かに理解できませんでした。
そして映画「原爆の子」も見たと思います。

そして書籍ではカッパブックスの※「三光」を読み、日本軍が中国で酷い事をしたと日本軍と認識を持ちました。
※注;後にプロパガンダ本と仄聞した。
戦後の教育を受けてきた世代には、日本国に対してよい印象は持てなくなりますね。
子供心に戦争に負けてと言う悔しさもありました。

しかし、中学生の頃観た新東宝の戦争映画で違った印象(強い国、立派な国)を持つようになります。
明治天皇と日露大戦争」「天皇・皇后と日清戦争」など観ることで。確か志村坂下(板橋区)に有った映画館。
小学校の近所に靖国神社がありましたので、小さい時、靖国神社大燈籠のレリーフから多少なりともその戦争の知識はありました。
         広瀬中佐 日本海海戦のレリーフが写っています。
大燈籠 ネット記事より
日清戦争では、「木口小平ラッパ兵の死んでもラッパを離さなかった」の逸話(これは母方の祖母が教えてくれた)、日露戦争では「日本海海戦」、後にその影響もあり、「海の史劇 前編後編」「バルチック艦隊の潰滅」の本を読んでいます。

社会人になるまでに、戦争に関する情報はいろいろと入って居ましたが、国防について深く考えるようになった切っ掛けは昭和45年11月25日の「三島由紀夫の自決事件」でした。

正直に言えば文学者の三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地のバルコニーで「檄」を飛ばして自衛隊に蹶起を促していた意味をよく理解しないまま中年期を迎え、出会った本「パール博士の日本無罪論」、当時取引していた銀行の支店長が呉れたものです。

小さい時から「喧嘩両成敗」と教えられていた私には「勝ったものが正義、負けたものが悪」との裁判に納得しかねていました。
しかし、パール博士の公平な司法判断で日本は無罪と断じていたからです。
これを読み、今までの太平洋戦争(大東亜戦争)に関する釈然としない事が解消したのです。
戦前を「悪」(占領政策の意図)と断じて、その判断で教育されていた戦後、自分自身で見直す気になって行きました。
見直す気持ちの一つに子供の頃大人から聞いた言葉。「坊や!マッカーサーは日本人の勇気と団結心をおそれて占領政策で弱くしようとした」との記憶に促されています。
そして「日本国憲法失効論」著者菅原裕を読むに至って、マッカーサーの占領軍の政策の意図を理解しました。

戦後から今まで「憲法9条」を国防の楯として主張する政治家が当選し存在し続けられるのも平和教育の名の下に現実を見る教育をしないためでしょう。
三島由紀夫に言わせれば檄文にあるように
「・・・われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。・・・」ネット記事より。
戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った」時から52年が経ち、ロシアのウクライナ侵略、中国の尖閣列島領海侵犯、北朝鮮の核爆弾保有、そしてロシヤが核をチラつかせ弱国に脅しをかける。
三島由紀夫が憂いていた事、「真の国軍」創設の意義は深い。
国を守る「国軍」が・・・・

前文の一部抜粋

・・・日本国民は恒久の平和を念願し
人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して
われらの安全と生存を保持しようと決意した。・・・

此の事を後生大事に77年、当時自衛隊員も三島由紀夫の檄に対し雑言を発していた。
真の国軍創設が急務、国民が「戦後のあまりに永い日本の眠り」のままに覚醒しないと三島由紀夫のいう伝統的日本国は壊れていく。
国軍があることにより隣国の野望を抑え込むことが出来るのである。

「原爆の子」の映画で、「二度と許すまじ原爆を」と謳うが被爆した日本が二度と被爆しないためにも、強国(原子爆弾を保有)としての存在を高め隣国に変な気を起こさせないことが戦後誓いを立てた「安全と生存を保持しようと決意した。」という事になるのでは。
マッカーサーの呪縛を解くためにも「真の日本の姿」を見る教育を!!!

ロシア、ウクライナ戦争で弱國と見られていたウクライナがロシアに負けないのはウクライナ人の「愛国心」、そして「強力な兵器」を西洋諸国から供与されているからです。

三島由紀夫の言う「戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った」は25年、それから52年も経っている。

これからは「反省、自戒でなく終戦記念日はマッカーサーの呪縛を解き、大東亜戦争をリビジョンして自虐史観を正す」日とすべきではないでしょうか!?

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。

スタッフ募集中です

過去の社長ブログ

最近のコメント


→社長ブログを見る

follow us in feedly   RSS