戦後の混乱、買い出し・ヤミ米・ヤミ市

産経新聞2022年2月11日付けの記事から、知り合いの方、またオヤジから聞いた戦後直後の話が思い出されました。
それは戦後混乱期に起きた「買い出し・ヤミ米・闇市」に関わる出来事です。

産経新聞より。

この記事には、終戦直後のヤミ屋の思い出話が書かれていました。
このエッセーを書いた方のご両親が刑事に追われている女の人を匿い、追ってきた刑事が温情で目こぼしして逃がしてあげる体験談です。
私、終戦直後の生まれ、子供の頃千代田区飯田町に住んでいましたが、戦後直後を思わせる風情として、合いの子、アメリカ兵などを目にした経験があります。
ヤミ商売などの言葉を、親から聞いていましたので何となく認識していたと思います。

ヤミ米ヤミ市」は物が不足した時代、統制下のあった事から生まれた言葉。
米が不足した時期,米穀通帳なるもので国は国民に米を配給していました。
オヤジは買い出しの為、東上線に乗って近郊の農家に行き食物を物々交換で手に入れたと思い出話をしていました。農家の人には足元を見られて価値ある品物も安く値踏みされたとか、悔しい思いをしたと言っていました。
終戦直後は買い出し列車と呼ばれていたそうです。

新聞記事とは逆な話となりますが、塗装設備会社の社長さんの思い出話。
・・・確か場所は上野駅、母に手を引かれた子供、背負っている赤ちゃんの親子連れ、警官が呼び止めて荷物を取締、買出しをして求めた食料を没収。
それを目撃したT氏は憤慨したそうです。
情があっていいだろう、子供に食べさせるために必死で手に入れたものをと。
警官も仕事でやることですが、無慈悲に写ったのでしょう。
法曹界に身を置く方が遵守して飢えで死んだ事件も記憶にあります。
私が社会人になっていた頃も お米の配給制度は残っていたと思います。
お米の通帳を必要としていたと記憶にあります。

「ふつうはやや大量に品物を買いに行くことだが、買出しが風俗を形成したのは,第2次世界大戦末期から敗戦直後の3年間ほどだった。1943年ころから戦時の諸統制がいっそう厳しくなって、配給の食品以外は東京、大阪などの大都市では入手しにくくなった。統制をくぐってこっそりとやみ商人が売る食品は高価で庶民大衆は買いきれなかった。そこで、農村地域へ出向いて、農家へ直接買いに行った。リュックサックを背に大都市居住者の多くが買出しに行くと、帰路を待ちうけて警察は駅や列車内で一斉取締りをして統制品を没収した。・・・ 」・・・社長ブログ「少年法について」より引用。
こんな話、どの年代までの人に記憶として残っているでしょうか?
都市部にいた人々が苦労して食糧を手に入れていたのです。
私自身飢えた記憶はありませんが、母が食糧難で「かぼちゃ」をよく私たち(姉・私)に食べさせたそうです。

 

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